人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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無教会と聖霊

2017-12-23 10:08:24 | キリスト教関連
「聖霊が心の内で教えるのでなければ、説教者が外から教えたり、説教したりしても無駄である。...聖霊がその人を内から照らすのでなければ、キリストに至ることはありません」
「聖なる教会は、信仰において隅石イエス.キリストの上に建てられた、霊的な、見えない集まりであり、その成員は全世界において、...あらゆる民族、異教徒、そして異なった言語を話す民の中に見出だされます」(ヴァレンティン.ヴァイゲル/キリスト教についての対話)

V.ヴァイゲルは16世紀頃のドイツの神秘思想家ですが、その語られる言葉は、17世紀英国のクエーカー派の創始者ジョージ.フォックスを彷彿とさせるものがあります。
こう書いて、いかにもフォックスが唐突にクエーカー集会を始めたように思われますが、実際はそれまで存在していた非組織的な集会を再編成した、と言った方が近いかも知れません。クエーカーには源流があったのです。
中世の後期、ドイツ、フランス、北部イタリアに跨がるライン川の周辺のアチコチに、教会組織を持たない小規模の集会が出現しました。
何しろ資料が少なく実体はよく分からないのですが、比較的有名なのは、ベギン会、ワルドー派、自由心霊派などで、これらは形骸化した教会体制への不満から、霊的生命に根差した原初的なキリストの道に立ち返ることを謳い、教会組織を持たないルーラルな集会を展開していたのです。
クエーカーはそれらが英国に伝播した流れにルーツが求められるでしょう。
クエーカーはその創成期の在り方ではないにせよ、今日も存続していますが、その源となったものはほとんど姿を消してしまいました。
この頃活躍したドイツの神秘思想家ヨハネス.タウラーは、「神の友」という信仰団体の中心人物で、その団体は「ドイツ神学」という題名で知られる書物の作者とも関わりがあったようです。(両者ともドイツ最大の神秘思想家マイスター.エックハルトの顕著な影響を受けていました。又ヴァイゲルはこれらの、カソリックでもプロテスタントでもない、裏の道統にある人でしたが、一方でパラケルススの錬金術との関わりから、やや後に表れたヤーコプ.ベーメに道を開いたのです)
我が国には、所謂「無教会主義」という集会の形態が知られていますが、上記の団体は欧米では新、旧の教会側からは、そうした公然と認知されることすらも叶わなかった、全く教会の外にハミ出した者たち、異端としてしか見なされない本当に教会無き信仰集団だったのです。
だが、皮肉にもこうした有り様こそがキリスト.イエスの原初的集会のそれに近いものなのでした。
そもそも教会の原義は「エクレシア」といい、呼び集められた集団のことであり、主なるキリスト、聖霊によって集められた者たちといった内実をもっていたのです。
ついでながら、明治期の内村鑑三先生の「無教会」も当初はこうした理念を掲げていたはずだったのですが、その形式に捕らわれない集会の在り方はおそらく渡米の折、クエーカーに触れたことに影響を受けたものと思われます。
ただ、その後はあまりに「聖書の研究」(内村先生が出された雑誌名)に重きを置きすぎてしまったか、聖書研究会といった赴きになってしまいましたが...
エクレシアというものは、そもそも霊的生命である聖霊のハタラキとともにあるものではないでしょうか?
聖霊との交わりに集う者の意識が向けられれば、外的な組織や制度、儀式などへの囚われは薄くなり、ひいては教義への固執からも自由になってくるでしょう。
無教会は、「無教」にも通じるのでしょう。
ヴァイゲルの上掲の言葉は、意識が聖霊により変容された状態をよく表していると思います。
即ち普遍調和世界の音信を伝えているのです。
それは単に教会が無いということではありません。"見えざる教会"なのです。
それは死んだ教会建造物ではありません。生ける有機体です。エクレシアたる教会は"キリストの体"と言われるのも頷けます。
しかし、この歴史に埋もれた"見えざる教会"の消息は、キリスト教にとどまらない普遍世界の開示の雛形であった、と感じざるを得ません。
今日、その出芽はそこかしこに見出だすことが出来ます。



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