何度も言うように私は、キリスト教徒ではありません。
手島先生や小池先生など、キリスト者とされる方から多大な影響を受けて来ましたし、キリスト教っぽい?いくつかの団体と関わったこともありますが、なりたいと思ったことは一度も無いのです。
その独善性の強いキリスト教会にあって、割りと寛容な在り方を持った団体の中で私はずっとノン.クリスチャンを通して来ました。
要するに私は、“キリスト教のキリスト“を一度も受け入れたことが無いのです。この先もずっとそういうことは無いのである!
ただ、教会とか教義、教典など、そのキリスト教を取り巻き、形成している諸々の要素を取り払ったところに浮き彫りにされるであろう、キリストそのもの...その関わりから言えば、私はずっとキリスト教信者ならぬ、キリスト信者だったかもしれません。(信者という言い方は虫唾が走るほどキライなのであるが...)
少なくとも、私の実存とそのものとの間に、何ら障壁となるもの、抵抗感といったものは感じません。
いや、むしろ抗し難い、理屈を超えて、惹かれてやまないものを感じざるを得ません!
ヒタヒタと何かが臨み、私の外も中もそのものに満たされてゆく...そうです。そのキリストは現臨と共にあるのです!...
この現臨感というものは、多く先の先生たちから学ばされたことは確かなことです。その実存的関わりについてはベルジャーエフに多く負っています。
そうしていつの間にか、その現臨というものが私の実存と切り離されないものになってしまったのです。
断じてそれは、教会の御用達教義から受けたのでも、熱心な聖書読者でもない私が、その“誤謬無きみ言葉“から受けた訳でもありません!
ここで言っているキリストには、それら私の実存との間に介在する何ものも無いのです。
かつて、小池先生亡き後の集会や、クエーカーの集会において私を捉え、感応させたものは、そのキリスト教の外なる、“色の着いていない“キリストだったのでしょう。
と...このように書いて行くと、あるキリスト者などは、“アーメン、わが意を得たり“、と思って喜ぶかもしれません。
しかし、よく考えてみて下さい、キリスト教の外のキリストとは、もはやキリストとは呼ばれないものなのかもしれないのですよ!
仮に、阿弥陀如来にその現臨を強く感じることもあるかも分かりません。神道的な神の“み顕れ“を感じるかもしれません。(私の場合?...キリスト教的なものから多く負っているのは確かなのですが...切り離されない、分けられないですね...)
何であってもいいが、何であってもよくは無い!...現実にそれが臨むことが肝心なのです!
つまり、キリスト教の外のキリストとは、あらゆる宗教宗派を超えているのです。
それは“自己を超えたもの“との二重の意味で、超越的なのであり、自己の、我々の思いを超えたものを頂くということに尽きるでしょう。それは又自己実存と切り離されないものなのです。
特定の呼び名に囚われない、本来名付けられない現臨にあって、自己は自己でありつつ、普遍性へと開かれるでしょう。個的なものと普遍的なものは切り離すことは出来ない!
その境位から宗教対立は夢と消えて、宗教が本来指向していた、普遍調和世界が開かれてゆくでしょう...。
このようなことを呼び覚ますものは、私の中の普遍的なキリストなのでしょうか?
手島先生や小池先生など、キリスト者とされる方から多大な影響を受けて来ましたし、キリスト教っぽい?いくつかの団体と関わったこともありますが、なりたいと思ったことは一度も無いのです。
その独善性の強いキリスト教会にあって、割りと寛容な在り方を持った団体の中で私はずっとノン.クリスチャンを通して来ました。
要するに私は、“キリスト教のキリスト“を一度も受け入れたことが無いのです。この先もずっとそういうことは無いのである!
ただ、教会とか教義、教典など、そのキリスト教を取り巻き、形成している諸々の要素を取り払ったところに浮き彫りにされるであろう、キリストそのもの...その関わりから言えば、私はずっとキリスト教信者ならぬ、キリスト信者だったかもしれません。(信者という言い方は虫唾が走るほどキライなのであるが...)
少なくとも、私の実存とそのものとの間に、何ら障壁となるもの、抵抗感といったものは感じません。
いや、むしろ抗し難い、理屈を超えて、惹かれてやまないものを感じざるを得ません!
ヒタヒタと何かが臨み、私の外も中もそのものに満たされてゆく...そうです。そのキリストは現臨と共にあるのです!...
この現臨感というものは、多く先の先生たちから学ばされたことは確かなことです。その実存的関わりについてはベルジャーエフに多く負っています。
そうしていつの間にか、その現臨というものが私の実存と切り離されないものになってしまったのです。
断じてそれは、教会の御用達教義から受けたのでも、熱心な聖書読者でもない私が、その“誤謬無きみ言葉“から受けた訳でもありません!
ここで言っているキリストには、それら私の実存との間に介在する何ものも無いのです。
かつて、小池先生亡き後の集会や、クエーカーの集会において私を捉え、感応させたものは、そのキリスト教の外なる、“色の着いていない“キリストだったのでしょう。
と...このように書いて行くと、あるキリスト者などは、“アーメン、わが意を得たり“、と思って喜ぶかもしれません。
しかし、よく考えてみて下さい、キリスト教の外のキリストとは、もはやキリストとは呼ばれないものなのかもしれないのですよ!
仮に、阿弥陀如来にその現臨を強く感じることもあるかも分かりません。神道的な神の“み顕れ“を感じるかもしれません。(私の場合?...キリスト教的なものから多く負っているのは確かなのですが...切り離されない、分けられないですね...)
何であってもいいが、何であってもよくは無い!...現実にそれが臨むことが肝心なのです!
つまり、キリスト教の外のキリストとは、あらゆる宗教宗派を超えているのです。
それは“自己を超えたもの“との二重の意味で、超越的なのであり、自己の、我々の思いを超えたものを頂くということに尽きるでしょう。それは又自己実存と切り離されないものなのです。
特定の呼び名に囚われない、本来名付けられない現臨にあって、自己は自己でありつつ、普遍性へと開かれるでしょう。個的なものと普遍的なものは切り離すことは出来ない!
その境位から宗教対立は夢と消えて、宗教が本来指向していた、普遍調和世界が開かれてゆくでしょう...。
このようなことを呼び覚ますものは、私の中の普遍的なキリストなのでしょうか?
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