人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

すべての生を生きる

2019-04-04 12:12:39 | 覚醒
"悟ったとか覚醒したとかなどには意味なんて無い"
とか言っている人もまま居ります。
そうかもしれません。...
そういう人は、おそらく生きていることすらそのように感じているのでしょう。
意味というものを追求していったら、何事でも、どうしてもそうなりそうです。
だけど、その渦中にあったら、そう感じてなど居られるでしょうか?
思考がおぼつかないのに、"こうなってることに一体どういう意味があるのだろうか?"などと...んなアホなi
意味がどうとかというのは、言うまでもなく、そう考えられているということなのです。
そして、意味があろうと、なかろうとあなたは生きているでしょう。
自分は居ないと感じていようと、そういうあなたは生きているだろう...多分。
考える...何かが分かった、分からないというより先にそうなっているのです。考えなくっても分かるでしょi
考えているということは、"主観"という概念自体そう思考されている訳ですが、どこまでも主観なのです。
だけど、あなたが生きていることはそういうことでは片付けられません。
あなたが考えている以前からあなたは存在しているのだから...
つまり、我々がこうして生きているのは、我々の"一存"に依ってはいないのです。
私は居るとか居ない、とか勝手に決めつけられるものではありません。
この肉体も、精神も感情もすべては与えられている..."私はこう思ったi"なんてことは、私の"すべての生"からみたら、ほんのチッポケなことに過ぎないのです。
すべての生と言っていいのか、自己の大本と言っていいのか、そういうもの抜きにこの生というものは"考えられませんi"
このつながりを蔑ろにした、限りある自己だけで完結してしまうような、悟りといったものは、それこそ無意味でしょう。
しかし、意識する、しないに関わらず誰もがそれとつながりたいと感じているハズです。自然なる要求として。
意味は分からずとも、"最愛なるものと出会いたい"、"最高に生きたいi"と感じているのではありませんか?
ここに生きている、生かされているということは、思われた自己とその元の自己とが相惹きあっていると感じずにおれません。
"私は、その元から愛されてなどいないi"などと言うなかれi あなたは現に生きているのではないかi
一人一人こうして生を享けていることは、最愛なるものから言わば、根源的な"令"みたいなものを受けているということなんじゃないかと思います。
そして、こちらは無条件にそれに赴かざるを得ないのです。
こういうことは、生きることそれ自体のうちにあると言えるでしょう。
悟りといったものは"すべての生"と切り離されて語られるものではない...悟りというと特別なものというイメージが付きまとうものですが、すべての生を生きることは万人に開かれているハズです。
"すべての生"を、思われた自分のことだけで考えている人には分からないでしょう。
そんなことより、あなたには、あなたの私には、私の生がある...。

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