このブログをずっと読まれている方ならお分かりのように、私は特定の宗教宗派から自由なのです。
特定の宗教的グループと関わったこともありましたが、そこでセクト、宗派性をもたらす言動に触れると強く反発を覚えたものです。そのグループと内的軋轢が引き起こされた主たる要因は、那辺にあったと言ってもいいくらいなのです。
しかし、ある宗教的領域で言い習わされている言葉に、特に惹き付けられるところがあります。
それはキリスト教的領域で"聖霊"と言い表されているものです。
言うまでもなく、私がよく(聖霊と言った場合、どうしてもキ教のイメージが付きまとうため)"現臨"というものと結び付けて言っているものですが、もう、その片言に触れただけで胸が高まってくるのを感じます。そう、意識が向いてしまうのです。
長いことその理由が分からなかったのですが、ブログを書いているうち何となく分かってきました。
それは、そこにキリスト教にまつわる信仰や神学などで色づけされない、純然たる聖霊の事態というものは、特定の教義、修行、儀式などに関わらないものだからです。
逆に言うと、その雑多なものが介入しだすと、それは立ち所に蒸発したように感じてきます。
つまりある教えを信じなければ、聖書を読まなければ、ある方法に則らなければ、教会に行かなければ、洗礼式に臨まなければ、聖霊に与ることは出来ない、ということはないのです。
逆説的に言えば、聖霊の事態はキ教の範疇を超えているのです。
キリスト教のキの字も知らない人でもそれを受けることが出来るのです。このことはこの無宿人の私自身がそう導かれたことで反証されることでしょう。
聖霊は古来よりプネウマ(風)にたとえられてきました。風は吹くところに吹くもの...特定の信仰や方法などで、方便といったもの以上に囚われるや、生命の枯渇につながります。
いつも感じていることながら、世にスピリチュアルと言いますが、これほどスピリチュアルなものは無い、と言っていいものが、あまりにもなおざりにされ過ぎてはいないでしょうか?
そこに相対的、人間的な教えだとか、教師だとか、メソッドなどがのさばり始めるのでしょう。
聖霊に与るとは直接的なことです。何かを為そうとする自己に先だってあるもの、天来のものであると同時に、元々うちに息づいているものです。この二つが引き合うところに聖霊がハタラく...信仰や行法によらずして...
聖霊は、このようにそれ自体が超宗派的なものと言ってもいいでしょう。(いや、全く私は惹き付けられてやまない訳です)
玉城康四郎先生は、原始仏教の究明から仏教的ダンマを聖霊と同質のものであるとし、それは諸宗教の根底に息づいているもので、セクト性を超えて、その原初的生命にあって共存されるとしています。
小池先生やベルジャーエフ、ティリッヒ(ドイツから米国に亡命した神学者)らも等しく、普遍調和に導く聖霊による新時代のヴィジョンを掲げていました。
私は日増しに強まる耳鳴り、風が心身に吹き抜け、浸透して行くのを覚えるにつれ、その時代の息吹を感じてやまないのです。
特定の宗教的グループと関わったこともありましたが、そこでセクト、宗派性をもたらす言動に触れると強く反発を覚えたものです。そのグループと内的軋轢が引き起こされた主たる要因は、那辺にあったと言ってもいいくらいなのです。
しかし、ある宗教的領域で言い習わされている言葉に、特に惹き付けられるところがあります。
それはキリスト教的領域で"聖霊"と言い表されているものです。
言うまでもなく、私がよく(聖霊と言った場合、どうしてもキ教のイメージが付きまとうため)"現臨"というものと結び付けて言っているものですが、もう、その片言に触れただけで胸が高まってくるのを感じます。そう、意識が向いてしまうのです。
長いことその理由が分からなかったのですが、ブログを書いているうち何となく分かってきました。
それは、そこにキリスト教にまつわる信仰や神学などで色づけされない、純然たる聖霊の事態というものは、特定の教義、修行、儀式などに関わらないものだからです。
逆に言うと、その雑多なものが介入しだすと、それは立ち所に蒸発したように感じてきます。
つまりある教えを信じなければ、聖書を読まなければ、ある方法に則らなければ、教会に行かなければ、洗礼式に臨まなければ、聖霊に与ることは出来ない、ということはないのです。
逆説的に言えば、聖霊の事態はキ教の範疇を超えているのです。
キリスト教のキの字も知らない人でもそれを受けることが出来るのです。このことはこの無宿人の私自身がそう導かれたことで反証されることでしょう。
聖霊は古来よりプネウマ(風)にたとえられてきました。風は吹くところに吹くもの...特定の信仰や方法などで、方便といったもの以上に囚われるや、生命の枯渇につながります。
いつも感じていることながら、世にスピリチュアルと言いますが、これほどスピリチュアルなものは無い、と言っていいものが、あまりにもなおざりにされ過ぎてはいないでしょうか?
そこに相対的、人間的な教えだとか、教師だとか、メソッドなどがのさばり始めるのでしょう。
聖霊に与るとは直接的なことです。何かを為そうとする自己に先だってあるもの、天来のものであると同時に、元々うちに息づいているものです。この二つが引き合うところに聖霊がハタラく...信仰や行法によらずして...
聖霊は、このようにそれ自体が超宗派的なものと言ってもいいでしょう。(いや、全く私は惹き付けられてやまない訳です)
玉城康四郎先生は、原始仏教の究明から仏教的ダンマを聖霊と同質のものであるとし、それは諸宗教の根底に息づいているもので、セクト性を超えて、その原初的生命にあって共存されるとしています。
小池先生やベルジャーエフ、ティリッヒ(ドイツから米国に亡命した神学者)らも等しく、普遍調和に導く聖霊による新時代のヴィジョンを掲げていました。
私は日増しに強まる耳鳴り、風が心身に吹き抜け、浸透して行くのを覚えるにつれ、その時代の息吹を感じてやまないのです。
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