私は以前には、人間というものは肉体があって、精神があって...又宗教や精神的な道に関心を持つようになってからは、その奥に霊体のようなものがある、と普通に考えていました。(というより、そう誰かが説いていたことを真に受けていただけなんですが...)
そして、いわゆる物質主義、唯物論というものは、物質、肉体しか認めようとしない、それでは精神性、霊性に開かれることがないから、そっちに心を向ける必要があるのだ、とこれ又普通に考えていたのです。
しかし、よく考えてみたら、その物質主義、唯物論というものは、そのように“考えられている“思想的なものだ、ということが分かるのです。当たり前の話、それは精神の産物なのですよ。
ということは、唯物論というものがあれば、唯心論というものがある、精神主義というものもあるだろう...観念論とか。つまり考えられた思想的なものだったら、説かれることは違っても、出所は同じということなのですよ。
私の今の感覚では、唯心論、精神主義的な考え方というものは、唯物論よりもリアリティというものを感じません。観念論というか、観念に浮いたものには何にもそういうものは感じないのです。そう考えられ、言っているだけのものではないか?、と。
一方、唯物的な考え方というものは、普通の人間は見えるものしか、そこに“在るもの“を認識出来ないものだから、一理はあるように思えるのです。“霊とか神とか分からないものは持ち出すな、“っていうご意見もしごくもっともだとさえ思えます。
思想、観念に浮いたものは、全くどうともならないと感じてしまうのです。
しかし、私は宗教、精神的な道というのは、霊性に開かれることが重要であるのを疑い得ません。
これが先の物質、精神という捉え方の延長のように、霊性主義のような思想的なものに過ぎないものだったら、もう欺瞞にしか感じません。
物質、肉体があり、その奥に霊体があるという捉え方は、心霊主義と言われるものでしょう。(それを否定してる訳ではありませんよ!)
考えられた、主義化された霊性なんていうものは話になりません。それは(何度も言う)思いを超えたところに開かれるものなのだから!
それは、物質のように“モノがあるように“は感じられません。
しかし、この私そのもの、肉体として在る、考えている私も含めた私が、“ここに在る“ことを意識するならば、そうした限定された感覚は超えられてしまうのではないでしょうか?
そこには、肉体、精神というものに分割出来ない、丸ごとの私が感じれて来ないでしょうか?
そこに思われた私は超えられている!...霊性に開かれるということはこのことを言っているに他ならないのです。 そして、そこに霊なるもの、神的なものと仮に言い表すものは、それを開顕させるもの自体でもあるのです。
これは、観念に浮いたことでなく、実に具体的な感覚を伴うことを言っているのです。ある意味では身体的と言ってもいいかもしれません。
しかし、それは肉体に限定されることの無い、超越的なものと一つの実存感覚を内包したものです。
無限定である故に、私には霊体と言われるような“体“的なものは感じられませんが、具体的なものではあります。言葉に言い表せないものですが、強いて、便宜的に言えば、それは“統合体“のようなものでしょうか?
おおっと、あまり考えてはならないのでした。
意識するのです。感じるのです。そうさせるものを!...
そして、いわゆる物質主義、唯物論というものは、物質、肉体しか認めようとしない、それでは精神性、霊性に開かれることがないから、そっちに心を向ける必要があるのだ、とこれ又普通に考えていたのです。
しかし、よく考えてみたら、その物質主義、唯物論というものは、そのように“考えられている“思想的なものだ、ということが分かるのです。当たり前の話、それは精神の産物なのですよ。
ということは、唯物論というものがあれば、唯心論というものがある、精神主義というものもあるだろう...観念論とか。つまり考えられた思想的なものだったら、説かれることは違っても、出所は同じということなのですよ。
私の今の感覚では、唯心論、精神主義的な考え方というものは、唯物論よりもリアリティというものを感じません。観念論というか、観念に浮いたものには何にもそういうものは感じないのです。そう考えられ、言っているだけのものではないか?、と。
一方、唯物的な考え方というものは、普通の人間は見えるものしか、そこに“在るもの“を認識出来ないものだから、一理はあるように思えるのです。“霊とか神とか分からないものは持ち出すな、“っていうご意見もしごくもっともだとさえ思えます。
思想、観念に浮いたものは、全くどうともならないと感じてしまうのです。
しかし、私は宗教、精神的な道というのは、霊性に開かれることが重要であるのを疑い得ません。
これが先の物質、精神という捉え方の延長のように、霊性主義のような思想的なものに過ぎないものだったら、もう欺瞞にしか感じません。
物質、肉体があり、その奥に霊体があるという捉え方は、心霊主義と言われるものでしょう。(それを否定してる訳ではありませんよ!)
考えられた、主義化された霊性なんていうものは話になりません。それは(何度も言う)思いを超えたところに開かれるものなのだから!
それは、物質のように“モノがあるように“は感じられません。
しかし、この私そのもの、肉体として在る、考えている私も含めた私が、“ここに在る“ことを意識するならば、そうした限定された感覚は超えられてしまうのではないでしょうか?
そこには、肉体、精神というものに分割出来ない、丸ごとの私が感じれて来ないでしょうか?
そこに思われた私は超えられている!...霊性に開かれるということはこのことを言っているに他ならないのです。 そして、そこに霊なるもの、神的なものと仮に言い表すものは、それを開顕させるもの自体でもあるのです。
これは、観念に浮いたことでなく、実に具体的な感覚を伴うことを言っているのです。ある意味では身体的と言ってもいいかもしれません。
しかし、それは肉体に限定されることの無い、超越的なものと一つの実存感覚を内包したものです。
無限定である故に、私には霊体と言われるような“体“的なものは感じられませんが、具体的なものではあります。言葉に言い表せないものですが、強いて、便宜的に言えば、それは“統合体“のようなものでしょうか?
おおっと、あまり考えてはならないのでした。
意識するのです。感じるのです。そうさせるものを!...