真宗系の宗教哲学者安田理深師は、所謂神秘体験というものに否定的だったようです。
これは何を持って神秘体験と捉えるかで、観方、感じ方は別れるでしょうが、そこでは主として同じ仏教の真言、日蓮宗などに観る、目にモノを言わせるような超常的"霊験"と結び付くような事について述べられたようです。
又常識的、理性的キリスト者でも、"回心"、"啓示"といった事柄については、常識的判断を超えない範囲内に押さえられ、異言や奇跡的治癒などの"霊験"の伴う、原始キリスト教や種々の神秘主義について否定的な観方をする者も多いのです。
その理由としてそれらのことは、"現代科学、理性的見識の発達していない、行き届いていない世界でのことであり、現代に生きる我々は、それ相応にアダプトされた理解が求められる"、云々とのことだそうです。
先の安田師の言葉からは、宗教的な回向、回心、おまかせ..."分別を超えて投げ出す、ということ"の消息はハッキリと感じられます。
霊験があろうが、あるまいが弥陀の本願にひたすら打ちまかして行く生き方です。
その神秘体験批判というものは、真宗的な(ある意味で禅的なものとも通じるでしょう)念仏の静的な調子と加持祈祷などの動的、律動的なそれとの違いから出たものと思われます。
回向、回心という、分別を超えることの出来ない人間が、忽念と思いを超えて、神(仏)的なものに帰命されてしまう、ということ自体神秘体験とも言えないでしょうか?
しかし、現代的理性的感覚に留まったままの意識世界に、こういう事態が開かれてくるものでしょうか?
現代人の常識的判断から、思考次元を超えた神秘の次元について推し図っているだけ...要するに、経験したことの無いことは分からないだけなのです。
分からないことは否定してしまうとは何と傲慢な心的態度だろう...お気の毒という他ありません。
思いを超えた次元というのは、分からないことだらけなのです。"分からないi"と自覚されたところに超えた次元が開かれるのです。
意識があるところで閉じてしまっては、恩寵の光は臨んでこないでしょう。
それが臨んだならば、受け入れるしかありません。
恩寵をこちらの思惑で図ったり、制限することは出来ません。
私は別にそれを推奨している訳でも、それに深く通じている訳でもありませんが、広い宗教的な体験には常識を超えた、見た目にも妖しいような事態というのもあり得るでしょう。
神秘体験に囚われてはならないのは、言うまでもないことですが、もしその過程を通らされることが宿縁、御旨ならば受け入れるしかありません。
"囚われてはいけない"ことに囚われることだってあります。
思いでアレコレと判断しているのは、自分の思惑、力で何かの境地に至ろうとしているのでしょう。
自ら望んですることと、"臨まれて"させられることとは丸っきり違うことなのです。
とにかく思いを超えて臨んでくるものにゆだねることが肝心なのです。
勿論、如何に常識を超えたことでも程度というものは勿論あるでしょうし、危険性が生じたならば、考慮されるべきです。
しかし、"見えざる導き"に従うことは、"安心で居られる"と思います。それでアブナイことになったことがありません。
安心ということは、又心が安らかであるということでもあります。そうならない訳がありません。
自分が思い描いている常識的判断、自分が信奉し、帰依している立場、神秘的、悟境体験などへの固執...それらから離れられるのも導きに依ります。本当にゆだねるべきものを頂いていることが一番安心で居られることでしょう。
これは何を持って神秘体験と捉えるかで、観方、感じ方は別れるでしょうが、そこでは主として同じ仏教の真言、日蓮宗などに観る、目にモノを言わせるような超常的"霊験"と結び付くような事について述べられたようです。
又常識的、理性的キリスト者でも、"回心"、"啓示"といった事柄については、常識的判断を超えない範囲内に押さえられ、異言や奇跡的治癒などの"霊験"の伴う、原始キリスト教や種々の神秘主義について否定的な観方をする者も多いのです。
その理由としてそれらのことは、"現代科学、理性的見識の発達していない、行き届いていない世界でのことであり、現代に生きる我々は、それ相応にアダプトされた理解が求められる"、云々とのことだそうです。
先の安田師の言葉からは、宗教的な回向、回心、おまかせ..."分別を超えて投げ出す、ということ"の消息はハッキリと感じられます。
霊験があろうが、あるまいが弥陀の本願にひたすら打ちまかして行く生き方です。
その神秘体験批判というものは、真宗的な(ある意味で禅的なものとも通じるでしょう)念仏の静的な調子と加持祈祷などの動的、律動的なそれとの違いから出たものと思われます。
回向、回心という、分別を超えることの出来ない人間が、忽念と思いを超えて、神(仏)的なものに帰命されてしまう、ということ自体神秘体験とも言えないでしょうか?
しかし、現代的理性的感覚に留まったままの意識世界に、こういう事態が開かれてくるものでしょうか?
現代人の常識的判断から、思考次元を超えた神秘の次元について推し図っているだけ...要するに、経験したことの無いことは分からないだけなのです。
分からないことは否定してしまうとは何と傲慢な心的態度だろう...お気の毒という他ありません。
思いを超えた次元というのは、分からないことだらけなのです。"分からないi"と自覚されたところに超えた次元が開かれるのです。
意識があるところで閉じてしまっては、恩寵の光は臨んでこないでしょう。
それが臨んだならば、受け入れるしかありません。
恩寵をこちらの思惑で図ったり、制限することは出来ません。
私は別にそれを推奨している訳でも、それに深く通じている訳でもありませんが、広い宗教的な体験には常識を超えた、見た目にも妖しいような事態というのもあり得るでしょう。
神秘体験に囚われてはならないのは、言うまでもないことですが、もしその過程を通らされることが宿縁、御旨ならば受け入れるしかありません。
"囚われてはいけない"ことに囚われることだってあります。
思いでアレコレと判断しているのは、自分の思惑、力で何かの境地に至ろうとしているのでしょう。
自ら望んですることと、"臨まれて"させられることとは丸っきり違うことなのです。
とにかく思いを超えて臨んでくるものにゆだねることが肝心なのです。
勿論、如何に常識を超えたことでも程度というものは勿論あるでしょうし、危険性が生じたならば、考慮されるべきです。
しかし、"見えざる導き"に従うことは、"安心で居られる"と思います。それでアブナイことになったことがありません。
安心ということは、又心が安らかであるということでもあります。そうならない訳がありません。
自分が思い描いている常識的判断、自分が信奉し、帰依している立場、神秘的、悟境体験などへの固執...それらから離れられるのも導きに依ります。本当にゆだねるべきものを頂いていることが一番安心で居られることでしょう。
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