人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ハートは真我の座

2024-06-04 09:01:10 | スピリチュアル
ラマナ.マハルシは、”ハートが真我の座である”と言いました。
正直、私がこのブログを始めた初期の頃までは、そのことを体感的に分かることは出来なかったのです。
いやもう、本当にこのブログ活動は、私にとってライフワークなんてもんじゃない、”命だ”、と言っていいくらいですよ!
私が真我実現したか、どうかは知りませんが、”ハートが私の中心だ”、というこの気付きこそが命そのものでなくて何であろうか!
それまでも、意識が自ずからある中心へと収斂されてゆくようなことは、感じられてはいました。意識を何かに向けるというより、向けられてしまうということは、このことを言っているに他なりません。
意識の中心?...しかし、それは第三の目か?、頭のてっぺんか?...どうもよく分からない、考えたら余計分からなくなる...自ずとそうなる(これがミソなんだ!)...これはもうハッキリ体感出来る!...ハートで分かる。
といっても、それは所謂ハートのチャクラのことではありません。というか、私はチャクラのことはほとんど意識してないし、分からないですが...
本当の自分自身のことは、胸に手を当てて、ハートに聞いたら分かるのではありませんか?
このことは、私がそのように意識させられるもの、ハタラキを”現臨にあること”と盛んに言い始めたことと無関係ではありません。
これは、よりその現臨というものが、私の実存感覚を呼び覚まし、それと切り離されないものとして感じられることに拠るのです。
そうして、そのハタラキ的なものは、理学的な作用といったものを超えてより包括的なものとなり、私の内奥に浸透するようになったのです。
それは又、愛というもの、ある対象に向けられた愛でなく、私に本来的に与えられている、愛そのものに目覚めたこととも連動しています。
何故、意志想念を働かさなくても、自ずとある中心に収斂されてゆくのか?...これが本来的な愛の為せるところなのではないでしょうか?
惹きつけてやまないものがある!...それは最愛なるものが現前しているから!...
このようなことをここで書いて、否書かされている内に、いつの間にかかく導かれてしまった訳なのです。
そう、何か私の思いを超えたものに導かれて書いているような感じがずっとあります。
これは、やっぱり私の”真我の座”から来るのでしょうか?!...

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