人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神人のみ実在する

2024-07-17 09:44:43 | スピリチュアル
前回の続きというか、精神的な道については、いつもこのことに触れざるを得ません。
それは、言うまでもなく神と自己の問題です。宗教、スピ、哲学...これが焦点とならないものは無いと言っていいでしょう。
それで前回、”私が居て神を信じるのでなく、神があって真我があるのでも無い”、と書いて、書き終えた直後、ベルジャーエフが「神人だけが実在(実存)している」という重要な言葉を残していたのを思い出しました。これが“神、真我のみ実在している”ことを端的に表しているものでなくてなんであろう!
ただ、ベルジャーエフのこの言葉は、多く神人キリストに結びつけられているのは確かなことです。
”キリストを通さずして神につながることは出来ない“
それはしかし、キリスト教のみに限定されて語られるものでは無いはずです。
いつも言うように、神は我々の思いを超えた超越的存在です。
だがしかし、全く我々と何ら関わることの無い、超越の彼方にあるような神について、どうして私は、いつもクドイほど書き表すことが出来るのでしょうか?
ローマ時代の神学者テルトリアスは、神を信じることについて「不合理なるが故に我信ず」と言いました。
我々に何も関わらず、合理に合わないものを何故信じることが出来るのでしょうか?
それは、そこに何か信じざるを得ないような、あるものを感じているからなのではないでしょうか?
合理に合わないものは、理屈じゃない、そういうものは、信じざるを得ないのです!
見えない、考えられない、しかし感じられる...肌で触れるものよりももっと深く、私自身と切り離されないようにも関わるようなもの...
真に神を信じるとは、先見的な観念を信じることでなく、このように実存的な事態のことを言うのです。
その、自己と神を分かち難く結びつけているもののことを、ここで神人と呼んでいるに他なりません。
仏教的には、釈迦に現れたブッダ、法蔵に現れた阿弥陀如来(これは、イエスに現れたキリストに対応している)、又禅宗的には、無位の真人と言ってもよく、それは凡夫の我々に真我が現れるようなこととも言えるでしょう。
聖霊のように、我々を超えてハタラキかけて来るもの、我々の内奥から呼び覚まされるもの、この神人的なもの無しに、我々は現実に悟ることも救われることも出来ないのです。
神について、宗教などでは盛んに語られることはあっても、我々に直感されるものでなければ、ただ想像することしか出来ません。
神が直感されるならば、真の自己が目覚める、自己が目覚めなければ、神は顕わにならないのです。
一個なる自己からは、決して神を知ることは出来ない。神の方が臨むことから何かが開かれる、そこに望みが生まれる...
私がいつも神の現臨について書かされているのも、そういうものをますます感じてのことなのです。
それは、神人の真実がいよいよ明らかにされるということを示されているのでしょう!...
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