人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神観念を超えて

2024-05-28 09:55:30 | 
私は神を信じない人間には、どうしても心から信頼を寄せることが出来ないものを感じてなりません。
もっとも、信じることには色々意味がありますが...
私が言っていることは、神を信仰していようといまいと関係ありません。大体神のことなど分からない、神は思いを超えているものなのだから!...そう、要するに、これは自分の思い、力を超えているものを認めているかどうかということなのです。
だから、どんなに高遠な真理を説いていようと、諸手を挙げて讃えたいという気持ちにはなりません。どこか冷たく、プライドが高そうで、(超えたものを認めないことで)無理しているような感じを与えてしまうようで...
禅の師で、久松真一という方がおられました。師は“無相の自己“ということを標榜し、その自己は相対が無いということであり、自分には既に分別智も煩悩も無いのだと言います。
ずっとそんな境地なんだろうか?...
最近「覚の宗教」(春秋社刊)という神学者の八木誠一先生との対談を面白く読ませてもらいましたが、久松師はよく考えて、八木先生の鋭い質問に答えておられるようでした。
当たり前のことながら、根源的には無相の自己なのでしょうが、最初からそうなってここに表されている人間など居る訳が無いのです。
こういうところにどうも無理を感じてならないのですが...八木先生の、”どうしてそういう自己に目覚められたのか?”、という質問に短く”そういうハタラキがある”と述べておられるのです。
そりゃ、そうでしょう!...”私には煩悩が無い”、ということよりも強調すべきはそっちではないかと私などは感じてしまうのです。
自分の思い、力を超えたハタラキ無しには絶対にそうなりっこないのです!
それに、何も分別智も迷いも無しに人間存在としてそこに表されているはずなどないはずです。
この意味で、人間は無相であると同時に、”二相”があるのではないでしょうか?
久松禅は、もう一つ”無神論”ということを標榜していて、神は自己に超越して、別在の如く対象化して信じられているものから、”絶対主体”たる無相性から外れる、というようなことを説いているのです。そして、勿論その信仰される神は、観念の産物に過ぎないのだと。
これには、全く私も同調せざるを得ません。
だけど、神は信仰対象だけではありません。先のように、自己にハタライて、自我性を突破せしめるものなのです。
そして、その自己を自己たらしめ、在らしめているものでなくてなんであろうか?
自己実存は、自己を超えたものと切り離すことが出来ないのではなかろうか?
私は、先入、固定観念、ドグマ、偶像などに依存する神信仰を打破するという面で、久松禅に共感出来るところもあります。ただ、その教説があまりに一面的、一方的で、無理を感じてならないのです。
これを思うに、大方の宗教に慣用されている、神観念というものが超えられなければならないのを感じずにおれません。
それは、あまりに集団的思念に感染され過ぎているのではないか?
このことが実に、超越者を通して、我々の真態を明らかにすることにつながるのではないでしょうか?!







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