人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私自身の現実

2024-07-08 09:54:13 | 求道、探究
前回、行動の基準になるものとして、“愛、平安、リアリティ“を感じているかどうことを書いたのですが、そう感じないもの、いや真逆に感じるものというのも勿論あります。
顕著に感じるのは、“何か閉じられる、離れてゆく、落ち着かない...“といったものです。
従って、先の感じとは、“開かれる、収斂されてゆく、落ち着く“感じと言い換えてもいいのです。
こういうことをもっと分かりやすい、触覚的な感覚にそって言えば、“ジンジン“する感じと“ザワザワ“する感じと言ったりするのです。
その中で、“開かれる、閉じられる“、というのは、そうした意識の動きのことを言っているのです。向かう、向かわない...入る、入っていかない...
次に、“何かの中心に集まる、収斂されてゆくか、てんでばらばらに、遊離してゆくか“、ということも意識の集中してゆくかどうか、ということを表している訳ですが、何度か触れているように、それは意志想念の力でそうするのではなく、無為自然にそうなることなのです。
こう書けば、後の落ち着くということがどういうものか、ということは、説明しなくともお分かりになるでしょう。
これをもっともっと端的に言うことも出来ます。それは...私自身で居られるか、そうでないか...
“ああ、この本は全く私向きで無いわい、私には縁が無い!“、“この本は、私自身のことが書かれているではないか!“
私自身から離れてゆく感じを表すものとして、現実遊離した感じというものがあります。
これは、必ずしもその内容がそうであるということでなく、現界のことだろうと霊界のことだろうと、私自身の現実から遊離しているということを意味しているのです。
私自身の現実とは、私の自己実存、私がここに在る現実という他ありません。
そしてそれは、そう在らしめるもの、自己を超えたものが現臨、現前しているということなんです!
ああ...もう、この言葉を何回繰り返してもいい!...だって、それが愛、平安、リアリティに与ることなのだから!
これは、私が私を生きていること、私自身であること(それは神の現実と切り離されるものではない)がそうなのだ!、と言っているのですよ!
つまり、私自身であることが幸福なことなんだ!
何で、それを私が本当に、ホント~に、信じても、受け入れても、愛してもいない神やアヴァターなんかに求められようか?
何で、この現実から離れた、何次元の世界とか、来ない先の世界などに思いが飛んで行かなければならないのか?
そこに、本当に愛、安らぎはあるのか!
あなたの本心、あなたの神に聞いてみられよ!

いや、もうこの夏は、先が思うやられるほど、ハンパなく暑いです!
いつ、思いがどっかへ持って行かれるとも限りません。
それは、自分が自分で無くなるか、もっともっと自分自身になるかどうかの際に立たされている、この時代のことのようでもあります。

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