人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍なるキリスト

2019-11-24 10:45:36 | 現臨、ハタラキ
私が関西から東京に戻ってきた平成4年から数年間、小池先生亡き後の東京キリスト召団の集会に連なっておりました。
この頃は昭和54年初夏、私が初めて同召団に参った時の、あの聖霊の息吹きが充満して、一寸常識では考えられないような様相も見られた集会の在り方も、大分落ち着いたものになり、有り体に言えば、そのエネルギッシュなまでの霊的な雰囲気はかなり後退していたのです。
そこでは"生身を持った"講師的立場の人が牧会をするでもなく、月一回小池先生の後継者である、京都のO先生が来会する時以外は、もっぱら小池先生の講話のテープを聴くというのが、集会の中心のプログラムなのでした。
これはもう既に生の、この現つの真ん中にあって、霊なる命に接する集会の在り方は終わってしまった、ということを表明しているようなものです。
私はそうした在り方も(しょうがないと)受け入れて参会することにしたのです。
私は最初の自己紹介の時から、他の人にどのように受け取られたかは分かりませんが、ハッキリと自分の信仰的な歩み、現在の自分の在り方について言明しました。
そこで強調して語ったことは、主としてこのようなものでした。
「私はクリスチャンではありません。これまで一度も(自称でも)そうだったことはありません。洗礼を受けたこともなく、聖書を読んだり、讃美歌を歌ったりする習慣もないのです。私がここに居るのは場違いなことかも分かりません。しかし...私は多分皆さんと同じく小池先生からは多大な啓発を受けた者として、諸々の障壁を乗り越えて、ここに連なることは出来ると思っているのです...」云々と...まあ暖かい拍手で、迎えられた訳ですが、あの皆さんは果たして本気だったのか?(こんなこと言っちゃいけませんねえ...)
集会の司会は、当番で会員が各々順番に受け持つのですが、私の時は一寸型破りで、先の理由で通例、形式的に行っていた「聖書の朗読」、「讃美歌の唱和」などは、すべて省略させてもらいました。
正直に言わせてもらいますとねえ...先の理由は別として、何か時間を埋め合わせるように、長々と聖書を読んだり、讃美歌を歌うといった、形式ばったことが、アタシャ大キライなのですi
その上普段身に付いてないことをやれなんてこた、あーた、出来るかってんですよi 私は自分にも人にも誤魔化しはしたくないんですi
この私の身勝手流は、O先生来席の時にも、快く受け入れて頂きました。
その時でした。私はある証を語らされました。
最初は何かカッコつけたような言葉だったのですが、しまいに言葉にならないような感じになってきました。
自分であって、自分で無いような、普段では分からない意識状態になり、押し出されるようにも、口から迸り出てくるものがあります。
そうです。現臨に捉えられてしまったのです!
それがクリスチャンたちが言っている霊なるイエス.キリストなのか、どうかは分かりません。
私には一度もそういう形で示されたことはありませんでしたが、この現つの真っ只中に我ならぬ我というか、思われた自己でない、私そのものと分かちがたくあるものが現存し、共にある、その中に在らしめられている事態を一体どうしようぞi
そういう風なことを言わされていたか、今書かされているのか、よお分からんのですが...
もう、キリストの神は、どうでこうでとか、聖書的であるとかないとか、福音的であるとかないとか...人がそう言っているような他人行儀なことなどどうでもよくなってしまったのですi
何でこんなことになってしまったのか? 以前の私との明らかな違いは、こういうことをスラスラと表現出来るようになったことでしょうか?
それも私には自覚はありません。私はずっとキリスト召団と関わっていた訳でもなく、そこで劇的にキリストの光を受けて変容させられた、ということも無かったのですから...いつの間にかそうなっていたというのが実感なのです。
そして、今の私にはハッキリと感じられてきます。数十年前、出会った小池先生の詩文の中には、キリスト教という枠の中には収まることの出来ない、諸々の垣根を超えた普遍的キリストが見据えられていたということを...
コメント
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