人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ここから開かれた

2019-11-05 12:00:30 | 雑感
昭和52年の晩秋の頃、私は五井先生の「愛すること」という本を読んでいた時、どこをどう読んでいてそうなったかは定かでないのですが、思わず涙が止めどなく流れて来てしまったことがありました。
何か神の愛というものに触れたようなのです。
"すべてはここから開かれたi" これが私の精神的な歩みの原点と言ってもいいでしょう。
とてもドライな性格の私のそれまでの人生で、そういうことは無かったし、考えられないことだったのです。
これはただ単に本を読んで感激した、というだけのことのようで、私自身当時はそう思っていたものですが、なんであれ、それは思いも寄らないこと、すなわち思いを超えたものに触れたということに違いないのです。
そんな心境になどなろうとしたってなれるものじゃありません。どんなに修行を積んだとしても...
そして、それはすべての理屈を超えた事態なのです。
"もっと理性的な判断が必要だi"、という頭からの声も聞こえて来そうですが、理性的な判断ではけっして与ることは出来ないことなのです。
何が善で、何が真理だといくら考えても分からないことですが、それは文句なしに"イイコト"に決まってるじゃないですか?
愛と平安に与っているということなのですから...
これは、例えば五井先生を信奉し、"「世界平和の祈り」を称え、広めて行こう"、ということとは直接関係無いことです。
~のために、といったことが介在してくると、その"初めの愛"から外れてしまうでしょう。
この他、もっと役に立つ道とかもっと上の段階、究極の境地を目指すことに目が眩むとか...

"何という愚かなことだろう...
そうやって、この絶対的に"イイコト"から踏み外してしまうことは...
頭の中の異神の声に従って、あなたのハートからの真の神の声を遮ってしまうことは..."

実は先のような経験というのは、神、現臨に捉えられることの端緒になっていることが知られるのです。
それは、理屈抜きに惹かれてやまないことが高じて起こるようなことなのですから...
もう、そうなると、あれか、これかと選択する余地など無くなります。
ただ、あなたの真の神にゆだねる他に道はありません。
ですから、思われた自己からは何も始まってこないのです。

見ている景色は様々に移り変われども、ずっと変わらず活き続けている、ただ一つのもの...
思えば、私には修業生活などは無縁でしたが、ここに立ち返るということがあるばかりだったようなのです。
そういう意味では、ちっとも進歩などもなく、何処にも到達して居なかったとも思えるのです。
コメント
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