何度か書いているように、私が現臨と呼んでいるものを初めて感覚されるようになったのは、まだそうハッキリしたものでなく、朧気な感じでしたが、昭和54年の春先の頃でした。
その直前に、突如として意識が不安定な状態になり、それが遠のいて行って、何かブラックホールのような暗黒の虚無的な領域に引き込まれて行くような恐怖に襲われたのでしたが、そこにそれまで感じたことの無かった意識が芽生え、"私はここに居るよi"という、霊的なガイダンスのようにも私を守り、導いているものを感じ、その苦境から離れることが出来たのでした。
思い返せば、これこそ私を在らしめる、現存させるものであり、現臨と呼ぶに相応しいものだと思います。
しかし、当時はこんな風に書き表せる言葉も見つからず、表現する術もなく、先のようにそんなに自覚的になっておらず、意識に根付いてはいなかったのです。
それから二ヶ月くらい経って、俄然その朧気に感じていたものが、"これはリアルに私に直接アリアリと臨在してくるものなのかもしれない..."と、予感させずにおれない文章と巡り会うことが出来ました。
それが小池辰雄先生の「キリストの霊性」(小池辰雄著作集第八巻所収)という告白的な詩文なのでした。
「我が砕けて汝が生きる 心が裂かれてみ霊が宿る...
汝は私の一切で在り給う 私はもう何ものでもありません
私の眼玉が水晶体であるように、私の心塊も無色透明にされました...
私の信仰も、真実も、実存も棄てました
絶信の境地、この無色透明にこそ、汝の信仰、真実、実存が在るのです...」
"ああ、こんなことが現実に在るのだろうか? 何だか分からないが、もう理屈じゃない、無性に僕の魂は惹き付けられてしまう..."
ある文章を読んで、魂が揺さぶられ、吸い込まれるように行間に捉えられてしまうということも初めてのことでした。
小池先生が書いたものの中で、個人的には、この文章がもっとも先生の中に息づいているものが、端的に、凝縮されて表されているように感じています。
これは私が初めて接した、ああいう衝撃がそのように映じているのかもしれませんが、何度読み返してもそう感じてきます。
ともあれ、私はこのように人生の大きな変節に当たっていた頃、この霊なる言詞と巡り会っていたのですi
しかし...これ程の霊縁を感じながらも、私はストレートに、無条件に、その先生の精神世界にぶつかって行くことはありませんでした。
私には、特定の宗教ーこの場合はキリスト教。先生はキリスト教でない、"キリスト道"というものを掲げていたのですが、どうしても当時の私にはこの"教"というものが拭い去れなかったのです。
というのもどうしても無条件に受容出来ないという(これはハッキリ言って観念的な思惑に過ぎないですが)ものが強く心魂にあったからです。
無条件に惹かれてやまないものと、ある種のわだかまりとで迷っていたのです。
このように心魂に横たわっていたものが、正しいものか、どうかは分かりませんが、思念に囚われていることは迷いには違いありません。
"小池先生にとっては、主はキリストであった。私は...どうしてもキリスト(教)の門に飛び込む訳には行かないものがある..."
それがキリストだろうと、ブッダだろうと、OOの神だろうと、私は、私に直に生きてハタラク主なる神を求めていたのは確かなことでした。
しかし、もっともらしい理屈ですが、私の生ける主とは、すぐ思念の中に消えてしまうような、何と他人行儀なものだったでしょう...
その直前に、突如として意識が不安定な状態になり、それが遠のいて行って、何かブラックホールのような暗黒の虚無的な領域に引き込まれて行くような恐怖に襲われたのでしたが、そこにそれまで感じたことの無かった意識が芽生え、"私はここに居るよi"という、霊的なガイダンスのようにも私を守り、導いているものを感じ、その苦境から離れることが出来たのでした。
思い返せば、これこそ私を在らしめる、現存させるものであり、現臨と呼ぶに相応しいものだと思います。
しかし、当時はこんな風に書き表せる言葉も見つからず、表現する術もなく、先のようにそんなに自覚的になっておらず、意識に根付いてはいなかったのです。
それから二ヶ月くらい経って、俄然その朧気に感じていたものが、"これはリアルに私に直接アリアリと臨在してくるものなのかもしれない..."と、予感させずにおれない文章と巡り会うことが出来ました。
それが小池辰雄先生の「キリストの霊性」(小池辰雄著作集第八巻所収)という告白的な詩文なのでした。
「我が砕けて汝が生きる 心が裂かれてみ霊が宿る...
汝は私の一切で在り給う 私はもう何ものでもありません
私の眼玉が水晶体であるように、私の心塊も無色透明にされました...
私の信仰も、真実も、実存も棄てました
絶信の境地、この無色透明にこそ、汝の信仰、真実、実存が在るのです...」
"ああ、こんなことが現実に在るのだろうか? 何だか分からないが、もう理屈じゃない、無性に僕の魂は惹き付けられてしまう..."
ある文章を読んで、魂が揺さぶられ、吸い込まれるように行間に捉えられてしまうということも初めてのことでした。
小池先生が書いたものの中で、個人的には、この文章がもっとも先生の中に息づいているものが、端的に、凝縮されて表されているように感じています。
これは私が初めて接した、ああいう衝撃がそのように映じているのかもしれませんが、何度読み返してもそう感じてきます。
ともあれ、私はこのように人生の大きな変節に当たっていた頃、この霊なる言詞と巡り会っていたのですi
しかし...これ程の霊縁を感じながらも、私はストレートに、無条件に、その先生の精神世界にぶつかって行くことはありませんでした。
私には、特定の宗教ーこの場合はキリスト教。先生はキリスト教でない、"キリスト道"というものを掲げていたのですが、どうしても当時の私にはこの"教"というものが拭い去れなかったのです。
というのもどうしても無条件に受容出来ないという(これはハッキリ言って観念的な思惑に過ぎないですが)ものが強く心魂にあったからです。
無条件に惹かれてやまないものと、ある種のわだかまりとで迷っていたのです。
このように心魂に横たわっていたものが、正しいものか、どうかは分かりませんが、思念に囚われていることは迷いには違いありません。
"小池先生にとっては、主はキリストであった。私は...どうしてもキリスト(教)の門に飛び込む訳には行かないものがある..."
それがキリストだろうと、ブッダだろうと、OOの神だろうと、私は、私に直に生きてハタラク主なる神を求めていたのは確かなことでした。
しかし、もっともらしい理屈ですが、私の生ける主とは、すぐ思念の中に消えてしまうような、何と他人行儀なものだったでしょう...