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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

お上の水

2016-06-26 13:42:12 | 雑記
水不足が懸念されているこの夏ですが、普通に水が飲めるこの国は本当に有難い、と思います。
今、次は誰がその代表の椅子に座るのか注目されている都庁のある西新宿界隈。かつてここは巨大な浄水場だったことを知る人はどのくらい居るでしょうか?
私は微かな記憶で、すでに役目は終えて、空になったどでかいプールの埋め立て工事をやっていたのを覚えています。
ここにはすぐ近く甲州街道に沿って流れていた玉川上水から水が引かれていたのです。
玉川上水は、今でも京王線久我山駅の南付近から西は武蔵野の面影も漂う、雑木林の間をぬって流れているのを見ることが出来ます。
まるで、この流域はひょろ長い都会のオアシスといった風情です。
水路を遡って武蔵野市と小金井市の境付近の境橋で水路は分かれますが、この北東に向かうこじんまりとした流れが私にとって伝説の千川上水です。
私は小学6年の頃、練馬区の地図で西武池袋線にほぼ沿ってこの川が流れているのを知って、バスに乗りワクワクして行ったものの、すでに暗渠化されていて何とも言えない気持ちになったのでした。
いつだったか、豊島区の地下鉄有楽町線の千川駅の近くの暗渠を初めて訪ねた時、その風景が前に夢で見たものとそっくりだったので、驚いた事が有ります。ただ、夢で見たのはもっと周囲に自然が残されていて、清流が流れていたのです。
埼京線の板橋駅を挟んで東西に旧中山道が走っていますが、そのすぐ南に沿った道路は千川の下流部が流れていました。
そのすぐ南側は下り坂が続いており、こんな尾根のようなところに川が有ったとは、なかなかイメージ出来ません。
このように東京山の手の起伏に富んだ地形を考えると、人口の川を開くことが如何に困難をきわめる事か想像に難くありません。
これを江戸時代~正確な測量技術など無かった頃~に続々と行っていたのです!
通称、江戸の六上水と呼ばれ、神田上水が第一号で、三田上水、青山上水、亀有上水(スカイツリーのすぐ横を流れていた)に上記の二つを加えたものを差しています。
亀有上水以外は、隅田川の西側、山の手台地を流れていました。下町は下町で土地が低すぎて水が流れにくいという難しさがあったようです。
千川、三田、青山上水は、玉川上水の分水ですが、同じものに野火止用水や品川用水などがありますが、上水と用水とどう違うのかが私には判然としません。
上水とは下水に対しての呼称で、飲料水のことであるのは分かりますが、おそらくは、この六上水について言えば、ことごとくが小石川、白金、赤坂、浅草、本所などの御殿、大名屋敷、各要所に給水する目的で造られた…つまり上水とは”お上の水”という意味合いもあったのではないかと思います。
とにかく上水と言ったら江戸の昔からこの六上水のことなんです!…関西に居た時そんな呼称は聞いた事ありません。
お上は如何にエライのか知らないが、江戸町民のノドも心も潤わされてきたのです。
おそらく、それは天の恵みのように感じられたことでしょう…(本当のかみの水です)
実際の役目は短い期間で、多分、多くの場合ほとんど用水と変わらなくなっていたでしょうが…
そして、その流域には雑木林が育ち、多くの動物たちも憩っていたことでしょう。
それは現在の玉川上水、千川上水などの”見える”流域からも容易に垣間見ることが出来ます。
江戸の上水は言うまでも無く人工河川です。
だが、それは自然環境を損なうこと無く、自然と人間が共存出来る、という数少ないモデルの好例ではなかったでしょうか?
上水は江戸文化の生んだ最高傑作だったと私は思っています。
30数年前、野火止用水を皮切りに、玉川上水、千川上水と清流が復活したのを関西で知り、上京してワクワクして訪れたものでした。
(ことに伝説の空堀千川上水に”チョロチョロ水が流れておる!”のを実見した時は”こりゃ、夢ではないか!”と感じたものです)
これと前後して下町でもあちこちで親水公園が次々造営されるようになりました。
その多くはコンクリートの下に埋没されたものをその上に生かす、という試みです。
高度成長時代には暗渠化、フタ閉めに明け暮れていましたが、これらは僅かながらも命の復元のフタ開けの意識の顕れを見る思いがします…。










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