宗教、スピには人の気を引く、教えや瞑想法、メソッドが付き物みたいですね。
でも、特定の宗教、グループにしか通用しそうにない、教えもメソッドは全て方便と考えていいでしょう。
当たり前のことながら、人はそれぞれ持って生まれた機根や縁など違う訳で、万人に当てはまる教えもメソッドもあるハズなどありません。
それを決まったやり方で、通してしまったりするっていうのは、なんという不自然、乱暴な事かと思います。改めて考えると”宗教、スピってのはイイカゲンな世界だな”と、愕然とさせられます。
そうしたものは多く、悟りという事にも結び付けられるわけですが「こうすれば悟れる…」と、何の保証も無いのに、実に誇大かつ押しつけがましいものが多いですね。
私はしかし、そうやって悟った、覚醒した、って話はほとんど聞いた事が有りません。
そうした体験の報告というものは、ほとんどが何気ないことが契機になっているものです。
マントラなどで集客してる人などもそうしたものによって、そうなった訳じゃないですよ!
自分でいつも、そうした瞑想をしているんだ…何て言ってるみたいですが、ホントですかねえ?
抜かりなく宣伝に事欠かないみたいですし…
ある宗教などでは、何十年も修行してる人だったら、相当捉われも無く、妙好人のような人も居るんじゃなかろうか…と勝手に想像して接してみたら、ずっと上記したことなどに捉われ続けている人ばかり見受けられガッカリしたこともありました。
(悟った…云々はともかくある種の確信に預かっている人が居たら会ってみたい、という思いも捨て難くあるのですが…)
関係してる人は長年同じことばかり繰り返していて、疑問にならないのかな?と思ってしまうのですが、多分元々あった求道心も惰性でどっかへ行ってしまったのでしょう。
捉われるという事は、意念や思念に捉われるという事です。
”こうすれば…”という煽り文句によって徐々に、自動的にそれらに覆われて行くようです。
そこに、信仰生活や修行の在り方が長年のパターンと化したら、いよいよもって身動きできないものとなってしまいます。
”最初が肝心”という事は、どういう場合にも当てはまるものかと思います。
書物など縁で、胸がときめいた、とか全身震える感じだった…思わず随喜の涙がこぼれた…こういう共感の契機というもので、決まってしまうことも有るのです。
こういう事は、そこに書かれた言葉が媒体になって、自然と意識が形なき命に向けられる、という事を物語っているのでしょう。
方便でも、時に媒体となることも有るでしょうが、捉われの元ともなり易いものです。
方便はそれが指し示しているものが有って生きてくるものですが、それは意識がそっちに向けられているかどうかで定まってくるものでしょう。
意識づけが曖昧で、方便ばかりに捉われるのは本末転倒と言えます。
とはいえ、これまでの世界はそうした方便も必要だったようです。
拠りどころ、捉えどころが無かった、というか…我々がつながろうとしている命の大本がまだ開示されて無かった、という事なのでしょう。
それを望もうにも、彼岸のままだった…ということだったのでしょう。
ところがここ数年の特定の宗教、方便などに依拠せずとも目覚めに預かってしまう人が増加して来ているということは、その大本の方が此岸に、表に顕わになってきた、という事を示しているものと思われます。
そして、そこには方便というものを超えて、一人一人に応じて、直接的に彼の世界からのハタラキかけというものを感じずに居れません。
でも、特定の宗教、グループにしか通用しそうにない、教えもメソッドは全て方便と考えていいでしょう。
当たり前のことながら、人はそれぞれ持って生まれた機根や縁など違う訳で、万人に当てはまる教えもメソッドもあるハズなどありません。
それを決まったやり方で、通してしまったりするっていうのは、なんという不自然、乱暴な事かと思います。改めて考えると”宗教、スピってのはイイカゲンな世界だな”と、愕然とさせられます。
そうしたものは多く、悟りという事にも結び付けられるわけですが「こうすれば悟れる…」と、何の保証も無いのに、実に誇大かつ押しつけがましいものが多いですね。
私はしかし、そうやって悟った、覚醒した、って話はほとんど聞いた事が有りません。
そうした体験の報告というものは、ほとんどが何気ないことが契機になっているものです。
マントラなどで集客してる人などもそうしたものによって、そうなった訳じゃないですよ!
自分でいつも、そうした瞑想をしているんだ…何て言ってるみたいですが、ホントですかねえ?
抜かりなく宣伝に事欠かないみたいですし…
ある宗教などでは、何十年も修行してる人だったら、相当捉われも無く、妙好人のような人も居るんじゃなかろうか…と勝手に想像して接してみたら、ずっと上記したことなどに捉われ続けている人ばかり見受けられガッカリしたこともありました。
(悟った…云々はともかくある種の確信に預かっている人が居たら会ってみたい、という思いも捨て難くあるのですが…)
関係してる人は長年同じことばかり繰り返していて、疑問にならないのかな?と思ってしまうのですが、多分元々あった求道心も惰性でどっかへ行ってしまったのでしょう。
捉われるという事は、意念や思念に捉われるという事です。
”こうすれば…”という煽り文句によって徐々に、自動的にそれらに覆われて行くようです。
そこに、信仰生活や修行の在り方が長年のパターンと化したら、いよいよもって身動きできないものとなってしまいます。
”最初が肝心”という事は、どういう場合にも当てはまるものかと思います。
書物など縁で、胸がときめいた、とか全身震える感じだった…思わず随喜の涙がこぼれた…こういう共感の契機というもので、決まってしまうことも有るのです。
こういう事は、そこに書かれた言葉が媒体になって、自然と意識が形なき命に向けられる、という事を物語っているのでしょう。
方便でも、時に媒体となることも有るでしょうが、捉われの元ともなり易いものです。
方便はそれが指し示しているものが有って生きてくるものですが、それは意識がそっちに向けられているかどうかで定まってくるものでしょう。
意識づけが曖昧で、方便ばかりに捉われるのは本末転倒と言えます。
とはいえ、これまでの世界はそうした方便も必要だったようです。
拠りどころ、捉えどころが無かった、というか…我々がつながろうとしている命の大本がまだ開示されて無かった、という事なのでしょう。
それを望もうにも、彼岸のままだった…ということだったのでしょう。
ところがここ数年の特定の宗教、方便などに依拠せずとも目覚めに預かってしまう人が増加して来ているということは、その大本の方が此岸に、表に顕わになってきた、という事を示しているものと思われます。
そして、そこには方便というものを超えて、一人一人に応じて、直接的に彼の世界からのハタラキかけというものを感じずに居れません。