人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あなたと世界の平安

2016-06-02 20:04:17 | 祈りと瞑想
いつも思うのですが、今の世の中とても恵まれているという反面、実に生きるのが困難な時代でもあるということです。
”神や宗教、スピなどに頼らないで、現実生活を自分の力で生きましょう…”という方も居ますが、物理的にも精神的にもそうした生き方が出来ない人も相当数居るでしょうし、現在の様相は、見える、思われたままの現実だけが全てでは無く、その裏にある見えない、本源的な現実がフタ開けしない事には、すべてが行き詰ってしまう事を如実に感じざるを得ません。
まあ、その辺のところをここで何時も書かせてもらっている訳なのですが…
私は宗教、スピなどに批判的な事も言っていますが、勿論それ自体を否定するつもりなど毛頭ありません。
単純に神を信じ、神に祈る人が一人でも多く増えて欲しいと願っています。
だって、それは一人一人魂の平安、ひいては世界平和につながると思っているからです。
五井先生の世界平和の祈りの理念というものはこういうものでした。
それは又”個人人類同時成道”と言って、正しくこの二つはつながり合っている、という事を示されているのです。
先生の信奉者には異論もあるでしょうが、私は世界平和の祈りというのは、方便だと思っています。
そもそも決まった祈り言葉、やり方が有る、というのは方便ではないでしょうか?
(先生の説き方自体はかなり緩やかな、自由な部分が有ったですが…)
”南無阿弥陀仏”も”南無妙法蓮華経”も宗派によって分かれるものはそういうものでしょう。
先生の理念として普遍性を持った祈りの在り方というところから、この祈りが生まれたのでしょうが、一つのやり方というものには年月の経過とともに因習化も進むし、手垢も着いてしまうものです。
そうしたものの奥にあるものに根差していないと、そうなってしまうという事ですね。
では、何を指し示すものとしての方便だったか? というと…
”思い、意識を神様の中へ入れる…神様のみ心で満たしておく…”という事に尽きるのではないかと思います。この事は、先生の多くの著作にもそうしたことが記されています。
”そんなことで神は我々を救ってくれるんだろうか?”と、バカな事を言っちゃいけませんよ!
”意識が神と共にある”それ自体が救い、魂の目覚め、悟りではないでしょうか?
ところが、所謂信者と言われる人の中には、”自分の救い、悟りよりも世界人類の平和が第一だ…”などと噴飯ものの事を宣っている向きも居ます。
アキレた偽善者も居たものです!…平安という事など何一つ分からないくせに、一体何の世界平和か!と言いたいです!
これはこの大乗的な祈りから意識が”世界を何とかしなければならない”と外向きに傾き出して、自己の内なるものから切り離され、自分と世界が別々の事になってしまうところから来るのでしょう。
人間の思念で世界はおろか自分自身のことだってどうにも出来ない事です。
思念に捉われるとかえって、予言や陰謀論などあるかどうかわからないような、外向きの諸々の妄説にハマリ出しかねません。
ラマナ・マハルシが「世界のことは神が面倒みる事だろう」と言っている通りで、神というか思念を超えたハタラキに任せる…それが思いを神の中に入れる、という事に通じるのでしょう。
悟り云々という事はさて置き、なにも五井先生の教示のみならず、自分の意識を神のひびきで満たし、平安の内に居る事…この事と世界の平安とは別のことではないのです。
これは個人がどうなる、こうなるという次元の事じゃないからです。
”自分が世界を救おう”というのも世迷い事なら”自分だけが救われた、悟った”というのもそうです。
ただ、少なくとも自分自身が魂の平安とはどういうものかを知り、味わってみない事には始まらないでしょう。
多分、その時同時に自分と世界のつながりという事も分かってくるでしょう。
世界平和の祈りは、この事を知らせる方便だったと思います。
現在は特定の宗教も方便を超えて、本当の意味で普遍的にあちら側から直接的に我々にハタラキかける時代を迎えているようです。
時が縮まってきているのを身に覚えています。









コメント
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