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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

伝えざるを得ない

2016-06-16 17:37:13 | 雑感
舛添さんもついに辞職してしまいましたね。
”周囲から散々屈辱を受けて、もう失うものは無くなった…”とか漏らしていたそうですが、彼にはまだ別荘も美術品もチャイナ服もあるじゃないですか!
彼は一体何を手に入れて何を失ったのでしょうか?…ま…人生それぞれですけど…

私がこのブログを書き始めた当初はある迷いがありました。
ちょうどその頃、ノンデュアリティが流行の兆しを見せ始めた頃で、”私はいない”とか”全てはストーリー”と、面白いストーリーを語る人もボツボツ現れ始めました。
まるで、こういう境地っていうのが究極の悟りのステータスみたいに語られていました。
そうした物言いというのは、実に自意識の強い人間には何か鼻の辺りをくすぐられるものが有りますねえ…
私はくすぐったい気持ちも持ちながらも、どうしてもそういう言説には身が頷くことが出来ません。
まあ、時が経ってみると、実にバカバカしく感じるのですが、何十年も経過した様に感じているのは私だけでしょうか?
ああいう人たちは余程人生を諦めちゃった人か、余程承認欲求の強い人に思えます。これは裏表という感じがします。
”いくら悟る人間はいないんです”とか詭弁を言っててもつい、サガってもんは出ちゃうものです。究極の…って言葉が出てくるので分かります。
”まだまだ私って感覚が有るうちは今だしなんですよ~”って言いたいんですね。
私はそういうくすぐったい思いを払拭したいという気持ちと、その悟り云々といった道と自分が歩まされている道とは、ズレが有るのを感じ出して、その辺を明らかにしようとここで色々書いていたのです。
そして自分自身に与えられたことなどのことを書いていて、改めて分からされました。
否、身をもって知らされました。このブログを通じて…
それは自分の原点です。色々な意味で…原点に帰らざるを得ません。
いくら悟ろうと、目覚めようとしても、これは自分の意志、力ではそうなりようがない…分かり切った事じゃありませんか!
いくら自分から瞑想したり、自己観察のようなことしても、それ自体が自分の限界内のことなんだからどうにもなりません。
しかし、時には思いを超えたところから意識の目覚めに預かってしまう事も有るでしょう。
思いを超えたところから…分かり切ったことというのは、こういう事なのです。
けれど、自分という線から抜けない人というのは、どこまでもそう言いたい個人が居るにも関わらず”私はいない”と言っています。でなきゃセミナーやったり、本など出したりしないハズでしょ。事実は自己を超えたハタラキ無しに何も起こりはしないのに…
それ無くして、私はあるともないとも断じることなど出来やしないのに…
そしていつしか自分で悟った、手に入れる事の出来ない悟りを手中に入れたなどと錯覚し出します。
この錯覚はそもそも自分を超えた、ある契機が与えられたという一点がボカされることから生まれます。
こうしたことは、”人は何のために生きるのか?”という人生の根本問題にも当然ながら通底していることです。
何のため?…さあ…いくら自分を見つめ直してみても私には分かりません。分かった試しなど無いです!
ただもう、その…思われた自分を超えて、息づいているあるもの…それにどこまでも引かされ、誘われていくしかない…私は有るのか、無いのか…いや、そのものだけが有るのです。何のために生きているのか知らないけれど、燃えるような生の充実感がそこにあるんだからしょうがない!
もう、究極の悟りだの、超越の境地だの、神秘体験して自分がどうなった、こうなっただののことはどうでもいいのです!
間にゃおさらばです!
ただ、この私の内に息づいている命のことは伝えたい…伝えざるを得ないのです!
このブログを書くのに何の意味、価値が有るのかは分からない…(毎度そうなるかどうかは分からないけれど)書かざるを得ないから書いているまでです。





















コメント
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