Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆「腹」と「原」を聞き間違えたのが原因? 勘違いで暗殺された不憫な原敬首相

2021-10-08 03:52:25 | Weblog

原敬内閣総理大臣




●原敬暗殺の引き金は......
 19代目の内閣総理大臣を務めた原敬(はら たかし)。彼は1921年、東京駅にて暗殺されるという最期を迎えた。しかしその事件は、犯人のとんでもない言葉の聞き違いが引き金となっていたのだ。原を殺したのは山手線大塚駅で駅員を務めていた中岡艮一(なかおか こんいち)、19歳。原が行なっていた財閥中心の政治などに、日頃から政治的な鬱憤を抱えていた。また、中岡の上司・橋本栄五郎も原に不満を持っていた。中岡は、橋本の影響を強く受けたとされる。
●あまりにも不憫な原の最期とその後
 事件の発端は、橋本と中岡のいつもの政治批判談義からだった。橋本の「今の日本には武士道精神が失われた。腹を切ると言っても、実際に腹を切った例はない」という発言に対して中岡は「私が原を斬ってみせます」と返答。そう、彼は橋本が言った「腹」を「原」と聞き間違えたのだ。そうして勘違いしたまま原敬暗殺を決意。そして1921年11月、中岡は東京駅にて原敬の右腕を短刀で刺して殺したのである。事件後の裁判で、中岡には無期懲役の判決が下った。
言葉の聞き違いが事件の原因だと明るみに出たのも裁判中のことである。更に、殺人を促したとして橋本が殺人教唆の疑いで起訴される事態となった。たった一つの言葉を聞き違えた為に引き起こされたこの事件、命を落とした原敬にとっては、あまりにも迷惑な話である。
●中岡艮一のその後
 無期懲役の判決を受けた中岡だが、3回の恩赦により1934年(昭和9年)出獄。獄中で回想録『鉄窓十三年』を書いている。出獄後は目立った政治活動はしていないが、頭山満と関係を持ったとされる。
その後、満州に渡り陸軍司令部に勤務した(「哈爾濱南崗 第四軍管区司令部」)から宛てた直筆の手紙が残されている。後、荘河県公処弘報主任に着任した。
この頃、極東にソ連からの難民として流れ込んだタタール人に興味を持ち、これを契機として、1937年(昭和12年)2月22日、神戸モスクでムスリムとなった。
1941年(昭和16年)には現地でイスラム教徒の姜鳳芝と結婚している。戦後帰国し、1980年(昭和55年)に77歳で死去。


     
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