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朱元璋 (1328~1398年)元(現・中国)名君と暴君の顔を合わせ持つ独裁皇帝

2018-06-14 04:11:12 | Weblog

明の初代皇帝「洪武帝」となった朱元璋は、卓越した頭の切れと高潔な理想で、貧しい身から権力の頂点まで登り詰めた英傑だ。
その一方で、ゾッとするほど陰惨な政治を行なった人物でもある。朱元璋の家は流浪の一家で、彼は六人兄弟の末っ子として生まれた。十七歳で両親と長兄を失い、一家は離散。托鉢僧となって淮河流域を放浪した後、一三五一年に起きた「紅巾の乱」に、地元の土豪・郭子興の一員として加わる。
次第に頭角を現した朱元璋は、遂には軍の長にまでなる。
その後、紅巾軍から離れて「呉王」を名乗る様になり、一三六八年には応天府(現在の南京)で皇帝に即位するまでに至った。同年には、モンゴル勢力を大都(現在の北京)から追放して元朝を滅ぼし、領土を拡大するなど、輝かしい立身出世を果たしている。だが、彼には黒い噂が付き纏う。
軍の長になったのは、彼の策略で郭子興や彼の後継の武将を殺害した為と云う説や、皇帝の座に就くまでに、残忍な謀略の数々を行なったことも囁かれている。例えば、群雄のライバルの一人で、蘇州を拠点とした張士誠は、朱軍に捕らえられて自殺したとされているが、実は朱元璋の怒りに触れ、棍棒で殴り殺されたのが本当だと謂うのだ。
とにかく、見事皇帝となった朱元璋は、明の国号を「大明」年号を「洪武」と改め、独裁君主制を強化して行く。
そして、謀反の猜疑心に捉われるあまり、権力の座を少しでも脅かす可能性のありそうな有能な部下や、帝位に就くと云う大願成就を助けてくれた永年の側近たちを、容赦なく殺して行った。その犠牲者の数は、何と十万人以上にものぼると謂う。一方、官僚機構と軍隊の徹底した教育も行なっている。更に正規の司法機関とは別に、独自の行動権を与えられた「錦衣衛」と云う皇帝直属のスパイ組織を作り、逮捕者を無理矢理にでも自白に導くのだった。そして、「凌遅」(体の肉を細かく切断したり削ったりする)、「剥指」(指の爪を剥がす)と云った、残忍さを極めた方法で公開処刑に処す。すべては皇帝の権威を保つ為の行為であった。晩年になると、朱元璋の独裁欲は更にエスカレートする。
それと同時に、自身のコンプレックスにもとり憑かれる様になる。貧民の出身を恥じ、その過去を想起させる様な文字の使用を一切禁止する言論弾圧「文字の獄」を行なったのだ。
そして、喩え故意ではなくとも、禁じられている文字を使用した者は、容赦なく死刑に処せられた。
彼の他人を一切信用しない方針は、自身の肉体と精神をすり減らす結果として返って来る。一三八二年、朱元璋を支えて来た良妻で、彼が唯一全幅の信頼をおいていた馬皇后が死亡する。朱元璋には多くの妃嬪は居たものの、その後は正皇后を立てることはなく、いっそう孤独な皇帝として独裁政治を続け、一三九八年に七十一歳でその生涯を終えた。朱元璋には、その残忍な遣り方に非難が集まる一方で、理想的とも謂われる皇帝の独裁政治を築き上げた賢帝と云う評価の声もある。時代や立場に因って、歴史の評価が変わって行く好例とも謂えるだろう。
(朱元璋の肖像には痘瘡面に描かれたものもあります)

   

          
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