不特定多数の人を相手にする販売という仕事に、ハワイに住むようになって初めて就いた。
オフィスでの仕事も、それなりにいろんな人に遭遇するが販売の比ではない。
今の職場はお客のほとんどが旅行客で、おおむね人々の心はハッピーなので、
ほとんどが地元客だった本屋時代よりは遥かにストレスは少ないのだけれど、
それでも毎日いろんなことは起きてくる。
販売の仕事に限ったことではないが、
日頃の鬱憤を同じ形でどこかで晴らしたい、という黒い思いが沸いてくることがある。
たとえば、電話で言いたい放題の文句を言ってみたいとか、
手に取った商品を、気が変わったのでまったく離れた別の場所に置き去りにしたくなるとか、
横柄な態度をとってみたいとかいった些細なことである。
そういう人たちの相手を「仕事、仕事」と念じつつこなしていると、こんなことができたら
さぞすっきりするだろうなァ、と想像する。
しかし、同じことを私はできないし、たとえしたとしても、けしてすっきりはしないことも知っている。
むしろ、この仕事をするようになってから、お客としての私は以前より低姿勢なぐらいだ。
小学校でも、職場でも、嫌な仕打ちをする相手に対して
「それと同じことを仕返せばいい、人がどんな思いをするか本人は知らないのだから」
と言う人がいる。
実際、同じことを仕返したこともたびたびあったけれど、そういうことをしたという嫌な気持ちだけが残り
なんの解決にもならなかった。
それは自分が良い人でいたい、というのは少し違う。
私はそんなことをするような人間ではない、という、そういうことをする人を見下すような気持ちがある。
この心理には覚えがある。
挨拶をしても無視する人に対して、わざと顔を近づけてでも再度挨拶するのは、挨拶しないことを見下しているからだ。
前の夫に対し、家事も完璧、仕事も忙しがって、常に相手をたて、どんなことがあっても怒らなかったのは、
こんなことができるのは私だけ、という変な誇りの陰に、相手を見下す気持ちがあったと思う。
ずーっとあとになって気づいた。
私はけっこう嫌なやつだ。
今はそれでも、少しは人間が練れて、挨拶をしたくない人の、したくないという気持ちを尊重できるようになったし、
自分の中にある、黒い気持ちに気づいても、それを認めて許すこともできるようになった。
父の会社で、背負いきれない荷物を背負ってあえいでいたときに母が言った、
「あんたはあんたが思うほどいい子じゃないから大丈夫だよ」
まさにそれである。
昨日、ドラッグストアに買い物に行った。
ペーパータオルの棚に、ポップコーンが置き去りにされている。
コーヒーの棚に、チルドにあるべきウィンナーが置き去りにされている。
ポップコーンは店員に渡し、ウィンナーはチルドに戻した。
レジの人が研修中で、操作にとまどって焦っていた。
「急いでないから大丈夫、おちついてやればいいよ」
私が新人のころ、そういう人に救われたことがある。
黒いのもそうでないのも、両方自分。
たとえどんなに嫌な人にみえても、「嫌な人になりたい」と思って生きている人はいないのではないかと思う。
常に良い人ではいられないだけで、
または良い人の基準に開きがあるだけで、
みんな自分をいいひとだと信じて生きているのではないだろうか。
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オフィスでの仕事も、それなりにいろんな人に遭遇するが販売の比ではない。
今の職場はお客のほとんどが旅行客で、おおむね人々の心はハッピーなので、
ほとんどが地元客だった本屋時代よりは遥かにストレスは少ないのだけれど、
それでも毎日いろんなことは起きてくる。
販売の仕事に限ったことではないが、
日頃の鬱憤を同じ形でどこかで晴らしたい、という黒い思いが沸いてくることがある。
たとえば、電話で言いたい放題の文句を言ってみたいとか、
手に取った商品を、気が変わったのでまったく離れた別の場所に置き去りにしたくなるとか、
横柄な態度をとってみたいとかいった些細なことである。
そういう人たちの相手を「仕事、仕事」と念じつつこなしていると、こんなことができたら
さぞすっきりするだろうなァ、と想像する。
しかし、同じことを私はできないし、たとえしたとしても、けしてすっきりはしないことも知っている。
むしろ、この仕事をするようになってから、お客としての私は以前より低姿勢なぐらいだ。
小学校でも、職場でも、嫌な仕打ちをする相手に対して
「それと同じことを仕返せばいい、人がどんな思いをするか本人は知らないのだから」
と言う人がいる。
実際、同じことを仕返したこともたびたびあったけれど、そういうことをしたという嫌な気持ちだけが残り
なんの解決にもならなかった。
それは自分が良い人でいたい、というのは少し違う。
私はそんなことをするような人間ではない、という、そういうことをする人を見下すような気持ちがある。
この心理には覚えがある。
挨拶をしても無視する人に対して、わざと顔を近づけてでも再度挨拶するのは、挨拶しないことを見下しているからだ。
前の夫に対し、家事も完璧、仕事も忙しがって、常に相手をたて、どんなことがあっても怒らなかったのは、
こんなことができるのは私だけ、という変な誇りの陰に、相手を見下す気持ちがあったと思う。
ずーっとあとになって気づいた。
私はけっこう嫌なやつだ。
今はそれでも、少しは人間が練れて、挨拶をしたくない人の、したくないという気持ちを尊重できるようになったし、
自分の中にある、黒い気持ちに気づいても、それを認めて許すこともできるようになった。
父の会社で、背負いきれない荷物を背負ってあえいでいたときに母が言った、
「あんたはあんたが思うほどいい子じゃないから大丈夫だよ」
まさにそれである。
昨日、ドラッグストアに買い物に行った。
ペーパータオルの棚に、ポップコーンが置き去りにされている。
コーヒーの棚に、チルドにあるべきウィンナーが置き去りにされている。
ポップコーンは店員に渡し、ウィンナーはチルドに戻した。
レジの人が研修中で、操作にとまどって焦っていた。
「急いでないから大丈夫、おちついてやればいいよ」
私が新人のころ、そういう人に救われたことがある。
黒いのもそうでないのも、両方自分。
たとえどんなに嫌な人にみえても、「嫌な人になりたい」と思って生きている人はいないのではないかと思う。
常に良い人ではいられないだけで、
または良い人の基準に開きがあるだけで、
みんな自分をいいひとだと信じて生きているのではないだろうか。
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