ワイキキのカラカウア通りにある免税店が閉店するらしい。
パンデミック以前を超えるほどの旅行者が来ているといっても、アメリカ国内の人ばかり。
免税の恩恵を受けられなければ、免税店に行く意味がない。
私は1度も免税店に行ったことがなく、閉店しなくてもこれからも行くことはかったと思うけれど、一区切りという寂寥感はある。
Kina Ole(キナオレ)という詩が、職場内の壁に掛かっている。
多くのお客様がそれを見て、「ビューティフル!」と感動し、写真を撮ってゆく。
Doing the right things
in the right way
at the right time
in the right place
to the right person
for the right reason
with the right feeling....
正しいことを、最善のやりかたで、ベストのタイミングで、正しい場所で、それがふさわしい人に、正当な理由で、良い感情をもって、やろう
Rightを「正しい」としてしまう私の稚拙さが原因だとしても、
私はこの詩にまったく感動しないのだ。
お客様がほめたときには、「ねー、いいですよね」と合わせておくが、
内心は「へっ」と思っている。
確かに良さそうなことを言っている。
けれど、きれいごとを並べただけの教科書みたいな詩の、どこがいいのかわからない。
正しさには、いろんな顔がある。
一般的に見ての正しさなのか、道徳的なのか、個人的な正しさなのか。
何が正しいのかということは、後になってからわかることのほうが多い。
その時は正しいと信じて行動したことが、そうではなかったとしても、それは正しくなかったということにはならないと私は思う。
その時の自分が正しいと決めたことなら、それはどんな結果になったとしても正しかったのだ。犯罪以外は、だと思うけど。
そもそも、最初から正しい道がわかっていて、それができたら苦労はない。
感情にまかせて、人を傷つけて、自己嫌悪にまみれて、絶望したり、
そうやって正しくないことを繰り返してしまうのが、人間じゃないか。
しかし、そうであるからこそ、意味がある。
もしも私が、若いうちに幸せな恋愛ののちに結婚して、玉のような子供に恵まれて、
愛にあふれ、みんな健康で、すべてが順調で、豊かにのほほんと生きる人生だとしたら、私は幸せに感謝できる人間になっただろうか。
私が誰にも優しく正しく菩薩のような人だったら、私を許してくれる人のありがたさを知るだろうか。
正しくあることより、正しくあろうとすることのほうが大切で、
正しくなかったとしてもそこから学べることのほうが、もっと大切。
ジェットコースターのような人生を送ってきた私は、適度にひねくれがきているのかもしれない。
「そんなきれいごと並べてどうすんのさ」
今日もそんな気持ちでキナオレを眺めるのである。