仕事の昼休みに、夫が電話をかけてくる。
天気や夕飯のことや、見かけた野良猫の話などを数分して、切る。
今日は、ホームレスの女性が水を欲しいといったので、水をあげたそうだ。
それで私に、着なくなった服や靴を袋にまとめておいて、と言う。
夫の、そういうところは慣れっこになった。
日本で出会ってまもなくの頃、時々会話に出てくる ワタナベさん という人を
車に乗っていたときに見かけて、
結婚するって挨拶したいから一緒に来て、と言われてついていったら
それがホームレスの女性で、私はものすごく驚いた。
私は自分が、ホームレスの人たちを差別していないと信じていたのが覆された瞬間でもあった。
私を紹介しつつ、そっとワタナベさんの手に1万円札を握らせた。
そのあと、歩きながら夫は
「(1万円は)あげ過ぎだと思ったでしょ」と言った。
図星だったので何も言えなかった。
「団体に寄付する人達もいるけど、僕は、相手の顔を見て確実に
それがその人に渡るのを確かめられるほうがいい。1万円なんて、パンを買って
飲み物買ったりしていたらなくなってしまう。
僕には毎月いくらかの収入があるから、いいんだ」
と言ったのを覚えている。
クリスマスには私の古いお財布に現金を入れ、中古のスーツケースに古着を買って詰めて、
ワタナベさんを探して走り回ったりした。
つい2年前の大晦日。
夫はクリスマス前から体調が悪かったのだが、
ホームレスの人に渡したいものがある、と言って私を車に乗せ、その人を探し回ったこともあった。
その人は男性で、少し片足を引きずっているのだという。
結局、その人は見つからなくて、仕方なく違うホームレスにあげた。
すべてのホームレスに対してそうなのではなくて、
限られた人にだけ固執するのが不思議。
見えない世界で、夫と彼らの間にそうしなくてはならない何かがあるとか・・・
夫は自分のことには構わないけれど、人には気前がいい。
困っている人には即座に手を貸す。
車の信号待ちをしているときに、中央分離帯でホームレスらしき人が転んだら
即座に車を寄せて助け起こす。
大勢の人がいる中で、私にはその行動を起こすのに時間がかかる。
まず、誰かが助けに行かないだろうか、と思う。
うっかり助けに行って、私の手におえなかったらどうしよう、と思う。
良い人ぶっている、と思われたらいやだ、と思う。
そんな思考が巡っている間に信号は変わり、「きっとあの人は大丈夫」
という根拠のない言い訳をして、私は去ってしまうに違いない。
障害者が歩いてきたら、知り合いのように元気に挨拶するのも夫だ。
近所に越してきた、お金持ちの中国人の家に
渋る私の手を引いて挨拶に行ったのも夫。
日本に住んでいたとき、アパートの隣に住む、陰険なオバサンに
私の反対を押し切ってハワイのお土産を届けに行ったのも夫。
渋る私の手を引いて挨拶に行ったのも夫。
日本に住んでいたとき、アパートの隣に住む、陰険なオバサンに
私の反対を押し切ってハワイのお土産を届けに行ったのも夫。
夫はきっと、転校生に真っ先に声をかける子供であったろう。
挨拶して、無視されたら。
障害者だから特別にやさしくしているのだ、と思われたら。
ものをあげて、嫌な顔をされたら。
私は、そんなふうに瞬時にネガティブな物語を作ってしまい、動けなくなる。
小心者で、ええかっこしいで、ケチな自分を嫌おうとすると辛くなる。
「そのぐらいいいんだよ、ほかに良いとこあり過ぎるから」
と大見得はって、自分を慰める。
私にないものが夫にあるように、
夫にないものも私にはある。
みんな違ってみんないい。あいだみつおさんだったっけ。
そうつぶやきつつ、着なくなった服や靴を紙袋に詰めている。