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親和会

地域自治会の親睦会の活動&トピックスなどなど~

親和会だより30年12,11,10,9月号

2019年01月07日 13時44分09秒 | 親和会たより

 親和会だより3012月号

今年も師走を迎える時候となりました。昔から11月に3の酉の日があるときは火災が多く、寒さが厳しくなると言われていますが、気象庁の長期予報によると暖冬とのこと、4日には気温が23℃となり12月の気温としては新記録となりました。これも異常気象の表れなのでしょう。それにしてもCOP24が開かれていますが、揉めにもめ,やっと全会一致で決まりましたが、果たして実行できるのでしょうか地球の将来が思いやられます。

サロン報告

1日、午後1時より前回に引き続き『わが町80年の歴史について』花薗公民館『歴史を学ぶ会』会員 杉江茂伸氏による講演を開催いたしました。今回も会員以外の方も多く参加され、中には他の地域の方も来られ盛況な催しとなりました。

 前回は検見川、花園,浪花町が中心の内容でありましたが、今回は朝日が丘、畑町を主題にされ、東大グランド、朝日が丘の低地が大昔は海であったとのこと、大賀ハスの実が発見された丸木舟3隻(3~5千年前)も戦中に発掘されていたそうで、現在の野村コーポ付近の高台より貝殻が多く発掘され、住居跡も発見されている。その海も富士山の噴火による降灰が降り注ぎ、また花見川上流より土砂が流れ来て湖となり、徐々に湿地となり葦が茂り、その後現在の地形となった。

前回の親和会だよりにも掲載してありますが、昭和38年ごろの朝日ヶ丘台地は広々とした丘陵地で松の木や雑木林も多く、自然いっぱいの田園風景が広がって住宅が立っているのは花園町に近い一角のみであった。39年のオリンピックの際、東大グランドでクロスカントリーが開催され、それ以降急激に住宅地として開発され、昭和49年になる頃には台地の大部分が宅地化され、朝日ヶ丘団地も着工し、わずか10年余りで大きく変貌、周辺の地域ではさつきが丘団地、西小中団地,そして私たちが住む住宅地も区画整理が進み、徐々に現在の東大グランド通りも広がるもまだ朝日ヶ丘2丁目には住宅がなかったとのこと。50年には花見川のサイクリングロードも完成、52年には花園陸橋も出来、陸側と埋め立て地と繋がり、一挙に交通量も増えた。そのころ私たちの住宅地にも移り住んでくる方も増え、現在の畑が丘自治会・サニータウン自治会が出来、立派な住宅地となってきました.

 53年にはJR総武線も複々線となり、新検見川駅も橋上駅となり一段と便利になってきた。また検見川神社のわきの道路も踏切立体交差となり、また京葉線が開通し『検見川浜駅』も出来,ますます交通の便が良くなり、人口増加となってきた。にれの木団地にも入居が始まり新検見川駅の利用者が駅の開業時はわずか4,100人が46年には26,000人、52年には61,000人、現在では年間30,000人と少なくなっては来ているが,京葉線を利用する人が多くなったためで、他に京成電車を利用する人もおり分散化してきている。

  平成に入り、4年に千葉市が政令指定都市となり、区政が布かれ花見川区、稲毛区、美浜区が誕生、花見川区役所が出来ると浪花町より分離、新しく瑞穂1~3丁目が発足、10年には瑞穂小も出来、中高層住宅が建設され新しい住宅地が誕生、21年には花見川に新しく瑞穂橋も出来、幕張方面に行くのが便利になった。また16年には朝日が丘町が朝日が丘1・2丁目となり次いで17年には畑町の一部が朝日ヶ丘3~5丁目となり、朝日ヶ丘町の前の町名は東大グランドのみに限られて残った。

 東大グランドで草炭採掘時に2000年以上前の丸木舟が見つかり、『落合遺跡』と名付けらたのが最初で、その後縄文期の『玄蕃所遺跡』、『鶴牧遺跡』、『中鶴牧遺跡』が発掘され、植物実験所でも古墳や中世城郭跡が見つかりました。また畑町には子安神社(1300年前に?)小さな古墳があり、長林寺,清涼寺など歴史ある寺社もあり、花園地区辺りとは違い、歴史あるではなかろうかと改めて認識いたしました。

 今回の講演において、手塚博禮氏が定点撮影をされた新旧の同じ場所での写真をプロジェクターで映し出し、あまりの変化に唖然とされました。僅か40~50年の間にこれほどの発展と言いますか、驚きと同時に感激いたしました。

           花園公民館歴史を学ぶ会編集『わが町80年の歴史について』より抜粋

例会報告

 12月15日定刻10時より開く、参加者16名、初めにラジオ体操、会長挨拶の後

年末に当たり今年を振り返り親和会の諸行事について皆様の忌憚ないご意見をお聞かせいただき今後の活動に生かしたい。まず各クラブの活動状態をお聞かせくださいと、中島副会長に司会を委ね各クラブより報告。

 囲碁の会   月1回 第一土曜 10時より 参加者男女合わせて6~7名

 カラオケグループ 月1回 第一月曜 食事持参で11時より2時まで 年間通し

    1部屋を予約しているが現在の参加者12名で満席となる シダックスにて

 健康マージャンの会 月1回 第2月曜 1時~5時 参加者4~5名

 寄り合い   月1回 第2土曜日 午後6時より8時まで板垣さんを中心にし

     て各自飲み物食べ物持参、参加者 5~6名 男女を問わず参加者を歓迎 

 健康体操の会 第2・第4金曜日 10時より12時 参加者6名で3種類の体操

           をやってるが体が温まり好評、必要なマットは各自持参    

 みんなで歌う会 月1回 第4土曜日 10時より12時 参加者 4名

       広瀬康夫さん指導  伴奏者が亡くなり開催が危ぶみの状態

 写経の会  月1回 第3土曜日 午後1時より3時まで 参加者9~10名

      平成25年3月第1回より12月まで63回、3月には納経を計画中、

      70回の節目にはお祝いをしたいと企画中

 音楽・美術鑑賞部会 千葉マスターズオーケストラの演奏会を今年5月に引き続

       き、来年6月22日 市川行徳文化ホールでの演奏会を鑑賞予定

             美術部会は出光美術館の『染付 世界に花咲く青のうつは』を来年3

             月7 日(水)に鑑賞予定

  旅行クラブ  しばらく実施して折らず、先にアンケート調査の結果でもはっきり    

        した反応が出ない状態

 以上各クラブの活動報告がありましたが、永島さんより夏休みにのラジオ体操の

 会は子供会との共催で行ってきたが、子供会の力が弱いことは否めない、何故な

 ら両親が多忙で役員のなり手がいなく会として繋がっていないことが現実である。

 地域の子供たちという考え方で親和会のかかわりを大きくして行くことも考える

 必要があるとの発言があり、続いて成住さんより、「セフティーウオッチャー(登

  下校の児童見守り活動)をしている関係で畑小学校より昔遊びを子供に教えてや

  って欲しいと依頼が来て参加した。子供たちと独楽回し、けん玉などをした。

 子供たちから若いエネルギーをもらい大変楽しかった。親和会も子供会との交流

 を考えて行きたい.

 今後ともサロン・例会において積極的に希望・意見を述べていただき会の活性化

 を図りたいと願っております。

 最後にNHKの新日本風土記より全国うまいもの(郷土料理)を鑑賞、各自故郷

 料理や珍しい食べ物等につき語らい散会となる。 

                                小井沼記

 親和会だより30年11月号

  10月中旬にやっと秋らしい肌寒さを感じる気温となりましたが、今月に入り

平年より気温も高く気候が逆戻りをしたような温かい日々が続いており、気象

庁の発表ではエルニーニョの現象により暖冬となるのではと予報しております。

私たち高齢者には暖かいことは大歓迎です.

 サロン報告

   11月3日、前々から予告しておりました『わが町80年の歴史について』の

    講演会を開催いたしました。講師は花園公民館「歴史を学ぶ会」会員   杉江茂伸氏

当日は会員以外の方も多く参加され関心の高さが窺われました。まず壁面に模

造紙3枚に花園地区を中心にした時代の経過と地図を交えたものを展示、更に

プロジェクターにより写真を交え説明をされた。

この検見川地区は明治22年の市町村制が施行され、検見川・稲毛・畑の3地

区が合併し検見川村となリ、明治27年に現在の総武線が開通し幕張駅が出来

る。大正10年に千葉が市制施工により千葉市となる、また京成電車が船橋~

千葉間が開通し、検見川駅が出来た。それまでは全て幕張まで行かなくては交

通機関がなかったがやっと現在の京成検見川駅が出来た。15年には検見川無線

所が出来たが現在の花園近辺が一面の水田であったそうで、住民はわずか3人

であったと言われ,ほとんどいない状態で、昭和に入り12年に千葉郡検見川町

が千葉市と合併、翌年検見川町から花園町・浪花町・朝日ヶ丘町が誕生、東大

が10万坪を買収、総合運動場として建設計画、14年には県立千葉工業学校が現

在の花中のところに新築移転され、学園都市としての期待が生じてきた。また

16年には稲毛に住宅営団が工場職員用の住宅を建設はじめ徐々に住宅地として

発展の兆しが出てき、22年に工業学校の跡地に現在の花中が第7中学として出

来た。26年には新検見川駅も出来、同じ年に大賀ハスの実が発見され、脚光を

浴びる。花園のご婦人たちが現在のグリーンベルトに桜を100本植えられたの

も30年の時で今や立派な桜並木として市民に楽しまれている。

39年には東京オリンピック開催、東大グランドにてクロスカントリー大会が開

かれ、以後急激に住宅地として発展するようになった。

42年より検見川地区の海岸の埋め立てが始まり、44年には花見川が印旛沼より

東京湾までの運河が完成、47年には北口バスターミナルが、南口には西友スト

アが開店、さつきが丘団地、西小中台団地が出来、50年には我々の住宅地も出

来たが、52年に花園陸橋が出来るまでバス通りも交通量も少なく実に静かな住

宅地であったが陸橋が出来てからは、山側と海岸地区との交通が各段に良くな

り交通量が増大し現在の状況となった。

53年には新検見川駅も現在の橋上駅となり、59年にはにれの木団地の入居も始

まり、一挙に新検見川駅の利用者が増えた。61年には京葉線も開通、平成に入

り4年に政令指定都市となり花見川区役所も出来、8年には新に瑞穂が誕生10

年瑞穂小学校が出来、16年には朝日が丘町から朝日ヶ丘1・2丁目、さらに翌

年3~5丁目が出来、住居表示が変わり、我々の自治会が畑町と朝日ヶ丘の2つ

の地名になる。

今回の説明は検見川・花園地区を中心に説明されたが、次回 12月1日では朝

日ヶ丘地区を中心にお話をして頂けるとのこと、お楽しみにご参集ください。

 忘年懇談会報告

 17日12時より恒例の忘年懇談会を自治会館にて開催、参加者32名(当日欠   

席3名)、小春日和の天候に恵まれ、暖房も消すような暖かい中、中島副会長

の司会により開始、会長の挨拶『私の独断と偏見により勝手に食べ物・飲み物

を準備したので悪しからず、日ごろの会話不足を解消するための懇談会です。 

存分に食事と会話をお楽しみ頂きたい』等述べ、次いで参加者最長老の竹島さ

んの乾杯、今年 米寿となられた坂場さんにお祝いの品を差し上げ、福岡・坂

場両夫人による米寿を祝う詩吟を吟じられ、成住さんから次の趣旨の感謝とお

祝いの言葉がありました。

『坂場さん 米寿おめでとうございます。昭和6年生れ 同期の桜ご交誼を頂いて

いる。平成23年親和会活動再興のとき 一から始まったのと同様、何をどう進めて

いけばよいのか?手探り。命題は皆様から喜ばれる親和会づくりでした。例会のみ、

サークルなし、サロンもなし、坂場さんはAブロックの田中さんと総務を担当、例

会が近づいてくるとどんな風にすすめるのか、議題は何か、進める順序は?どんな

ことを企画立案するか?今は亡き浦部さん尾山さんのアドバイスもありましたが、

毎月我が家で事前の打ち合わせをしました。ミーティングの司会はお人柄が滲み出

て堅苦しくない楽しい司会、又にかく早く自治会館にこられて会場の整備をされ

たのに頭が下がりました』

しばらく歓談の後、プロジェクタースクリーンに映し出された映像を見ながら

福岡実さんの司会によってカラオケ用のマイクを使用し、カラオケグループに

より、全員そして女性だけまた、酒も入り飛び入りの歌も数多くあり、時間の

過ぎるのも忘れ楽しいひと時を過ごすことが出来、最後に鈴木康夫さんに中締

めをして頂き散会となった。

毎年折り詰め弁当であったが、今回 銚子丸の大きな器の寿司を取り、つまみ

等をスーパーで購入、ご婦人たちによる盛り付けをお願いし、よく飲み食べた

パーティーを開くことが出来ました。お陰様で参加された皆さんに喜んでいた

だき幹事役として安堵いたしました。また参加できなかった会員の方々には和

菓子をお配りし日頃の感謝を表すことが出来ました。       小井沼記

   親和会だより30年10月号

9月30日真夜中、台風24号による暴風が千葉市で風速41.1mと記録されたとのこと、 

 会員の皆様もおちおち眠れなかったのではないでしょうか。南風による塩害もひどく、

 バス通りの街路樹も丸裸な状態となってしまいました。幸い私たちの街は大きな被害も

 なく安堵致しました。それにしても今年の夏は寒暖の差が大きく健康維持に苦労をされ

 たのではないでしょうか。 

サロン報告.

10月6日、真夏のような快晴の中、自治会館において抹茶を楽しむ会を開催いたし

  ました。参加者は22名、玄関正面には広瀬さんによる茶の湯に相応しい生け花、不如

 帰と秋明菊が生けられ、会場内には鈴木美沙子筆による色誌『無事』と広瀬康夫氏に

 よって生けられた生け花(薄,竜胆,藤袴、吾亦紅、水引)が置かれ茶室らしさが醸

 し出された雰囲気となる。

 初めに亭主の鎌田さんが開始の挨拶をされ、今日の抹茶や菓子の説明を鎌田さんのご

 息女の車田さんが説明、薄茶は『松柏』、菓子は『虫の音』、干菓子は『ふのやき』と

 淡雪羹『万華』、次いで正客として会長がお招きいただいた御礼を述べ、新しく会員と

 なられた山口和昭さん(現畑が丘自治会副会長)をご紹介, 本日の半東(運びのお手伝い)

 をされる松本さん、馬目さんお二人を紹介された。まず初めに濃茶をいただき菓子の

 甘さと抹茶の味が絶妙で美味しくいただけました。一巡した後、再び干菓子、淡雪羹

 を賞味しながら薄茶を頂き、しばし歓談の後閉会となる。日頃の喧騒から離れ、静か

 なひと時を過ごす有意義な時間を過ごす事が出来ました. 

 本日の主題『無事』とは臨済録の言葉として『無事是貴人』からで、あるがままに全

 てに対処できる人が尊いということから出たものであるそうです。また俳人 森澄雄

 が『無事は是貴人といへり蕪蒸』と詠み、「茶の湯とはただ湯をわかし茶を立てて飲む

 ばかりなる本を知るべし」と千利休が述べている。

 今回も茶を立てられた広瀬夫人、車田ご両人にお世話になりました。

例会報告

  10月20日、久しぶりによく晴れた秋空、気温もかなり低くなりやっと秋らしい季

 節となってまいりました。参加者は17名。ラジオ体操に続き、会計より本年度会計の

 中間報告として、イベント費用が残額0となってしまったので今後のセミナー講師料

 を予備費より支出することを提案、承認されました。また忘年懇談会の参加者が35名

 となったことを報告、NHKで放映された新日本風土記よりDVD『下北半島』を鑑

 賞、青森県の陸奥湾の東に当たる半島、対岸は津軽半島となる。恐山が有名であるが、

 他はマグロで有名な大間位しか知られていないが、原子力関係の設備が多数あり、そ

 のために多くの漁業者が廃業の憂き目にあったことなど、あまり知られてないことが

 映し出され、大いに勉強となりました。                            小井沼記

 親和会だより30年9月号

    長い酷暑より解放されやっと9月となりました。この夏は平年より平均気

   温が1.7度高く、今までにない記録的高温との夏で、多数の日射病患者が、

   またエアコンを点けない部屋で亡くなられた方も多数出たとのこと、先が思

   いやられます。会員の皆様方も夏バテにご注意下さる様お願いします。

   サロン報告

  9月1日、防災の日のためか例月より参加者が少なく、約10名、中島副

 会長の司会により開始、例月通りラジオ体操、会長欠席のため挨拶もなく、

 15日の例会について連絡事項を伝達後、用意したNHKで放映された新日本

 紀行より、三のうち希望の多い『古事記』と『松本』を放映。 

 出雲地方を中心に、古事記記載の諸々の現状が興味深く紹介された。大国主

 の白兎、八岐大蛇などの伝説や糸魚川のヒスイに纏わる逸話など、興味をひ

 く内容で見応えがあった。

 続いて『松本』」も引き続き鑑賞した。松本城を中心にまとまる市民活動、

 最近のプロサッカーの動きなどを紹介しながら日本最古の開智小学校や、少

 年刑務所における教育をとおして信州教育の姿などが紹介された。また有名

 な「民芸家具」の現状や里山辺の舟形山車の祭りなどが詳しく紹介された。

 北アルプスの常念岳をバックにした松本城の映像は美しく,自然に恵まれ教

 育熱心な地方であることがよく理解できた。DVDに見取れて16時ころ開散

 となった。

 例会報告

  8月4日に予定をしていたが余りの猛暑のため延期をしてた講演会を9

 月15日、午前10時より開催いたしました。前月とは打って変わり小雨模

 様の涼しい中、多くの会員また会員以外の方々約35名近くの方々が出席さ

 れ、特別にお願いしておりました講師の先生も驚かれるほどの集まりでし

 た。93才とはとても思えぬお元気さで約2時間、立ったまま大きな声でお話をしていただきました。折角のお話を聴き洩らさぬよう、ハンズフリーのマイクを用意してましたが、必要なしとのことで、準備していたものが無駄になりましたが最後まで最後列の方々にも届く声で圧倒されました。

  会長挨拶の後、成住さんより講師の紹介をして頂きました。

 山田治男先生は出光興産に勤務され、退職後は、登下校の見守り、あいさつ運動、

さわやか福祉財団(理事長堀田力)に参加、NPO法人青葉台さわやかネットワークの初代理事長、現在は相談役をされておられます。

    終戦を回顧し『戦争体験を通して、これからの日本を考える』

 昭和20年1月関東軍国境守備隊入隊満州黒河省砲兵中隊に配属された。敵戦車を迎え撃つための穴掘りが主な仕事であった。。昭和20年8月9日に日ソ不可侵条約をソ連が突如破棄し、宣戦布告もなく、満州に攻め込んで来た。主力軍隊は既に満州より 東南アジアに移動しており乏しい戦力のまま戦火を交え徹底抗戦した。

9月に入り、武装解除されソ連に連行される途中、開拓団の婦女子に「兵隊さん助けて」と言われたが、みじめでどうすることも出来なかった。シベリヤに3年間抑留されが、零下40℃以下で、飢え、強制労働に耐え牛馬にも劣る悲惨な生活であった。 辛うじて帰還できたが、一日も早く帰国したい一心でソ連に媚びる人、中傷する人が現れ、戦争や捕虜生活は人間を変えるのか、これが人間本来の姿なのか、悲しい実体を見てきた。また多くの方々の死を目の前で見、いかに戦争というものが残酷なものであるか、

戦争に負けるとは言葉に言い表せることが出来ぬ悲惨なものであることを体験した。

独立国として他国に依存せず、防衛力を持ち、国民自ら独立の気構えを持つスイスを見習うべきではないか。現在の日本は平和ボケの状態ではないでしょうか。

 民族滅亡の三原則とは

    1.夢を失った民族. 

    2.物ばかりに囚われて心の価値を失った民族

    3.自国の歴史を忘れた民族

 また、作家の半藤一利氏が歴史と人生で述べていること

    黒塗り教科書の結果

    1.自国の歴史を尊重しない国民

    2.歴史を抹消可能と考える国民

    3.自国の歴史を全く知らない国民、→歴史なき国民になる

 歴史を通じて、未来を考えることの重要さがあるのではないか。

 歴史の教訓とは 『後の人が歴史からは何も学ばない』これが歴史の最高

 の教訓ではないか。

 平和とはフランスの哲学者アランの言葉として

           『平和は常に死者の上に築かられる』

 その後、質疑応答があり、『出光での社員教育はいかなるものか』またい

 ろいろな質問に対して、懇切な説明を頂き、2時間超の講演会を無事終了。

 またこの地域に住む出光興産OB,現役の方々に大変お手伝いをして 頂き有難うございました。                小井沼記

感想文が寄せられました 「戦争を体験してこれからの日本を考える」を聞いて

93歳で約2時間の講演・質問時間をやりきる体力・気力に感心しました。そのために日頃の生活を自分でやりきる様にされている事。

シベリアの体験・出光での仕事等、自分が体験したことの生々しい話が聞けた事。やはり語り部は他人から聞いた伝聞情報の話では真実は伝わらない。ちょっとした事でも自分が経験したことを自分が話すことが大切と思いました。

山田さんを昔から存じ上げていますが当時から子供に対する見守り・挨拶等に 熱心でし

た。その意味からもそれを93歳の高齢になっても続けて居られる事に敬意を表します。 

戦争とは・国の独立とはについて山田さんのご意見を拝聴して考える機会となった。

国の本当の歴史を知る事・学ぶ事の大切さを教わった。

雨天にも係わらず大勢の人がこの講演会に参加され、熱心に聞き、また質問をされているのに感心しました。                                      KBNさん                           

93歳という御年齢を全く感じさせない、張りのある声と長時間にわたる講演の体力に感嘆いたしました。質疑応答にも的確に自身のお考えを伝えていらっしゃいました。

ソ連軍侵攻に伴なう、満蒙開拓団や関東軍のシベリア抑留の悲劇につき、その一部を歴史

本や小説、テレビでは聞いていたものの、実際にその現場に立ち会った山田さんのお言葉

は、非常に重く受け止めました。起こった事実は受け取め、その経緯をしっかりと把握し

今後のわが国の方向性判断に生かしていければと考えます。

今回、戦争直後から高度成長期の出光興産のよもやま話を教えていただきました。大先輩の生の声を、当方の後輩たちに伝えたいと思います。 

本会参加者の皆さんも大変お元気で、学びへの強い姿勢を感じました。当方の息子も参加させれば良かったなと思いました。                    FHMさん    

 

はじめに シベリアでの抑留生活の話をされ このような悲惨なことが二度と起こらないようにしっかりと平和を守らなければならないと述べられました。

70年前の出来事を今でも鮮明に覚えておられるということはそれ自体如何にシベリアでの抑留生活が過酷なものであったかを物語っていると思います。

次いで 国が滅びる原因として 国民が夢を持たなくなること、物にばかりこだわり精神的な面を疎かにするようになること、歴史から何も学ばなくなることを挙げておられましたがいずれも鋭い点をついておられると思います。

技術が益々高度化しIT化が大幅に進展するなど将来は不確実性がより増した社会が想定されますが国民が夢を持つことは大切なことだと思います。夢を持つことにより希望が生まれそれを実現するための行動等により道が開けより活性化した社会が実現し国が発展して行くものと思われます。

「人々が物欲にこだわること」 突き詰めて行くと 戦争の遠因は、歴史的に何れの場合もここから始まっているように思われます。世界中の人々がしっかりとした倫理観価値観を持つことが大切なことだと思います。

「ローマはなぜ滅んだか」ということを昔からいろいろな人が論じていますが歴史から

教訓を学び取り将来に活かすことは大切なことです。戦後73年平和が続きました。

その間に生まれた方々も全く歴史を学ばなかったわけでもないと思いますが実体験がないためぴんと来るところがなく  結果的に学んでいないのと同じ状態になっている点があるかもしれません。

そういう意味では山田様が各所で実体験のお話をされ啓蒙活動を行っておられることは

誠にご立派なことだと思いますし 我々もできる範囲でやるべきことはやらねばならないと思います。(以前 親和会でも 終戦記念日の日に子供会との話し合いの場を持とうと計画したことがありましたね)

また 慶応元年を起点として40年ごとに 日ロ戦争第2次大戦の終戦 バブルの崩壊などの大きな出来事が起きているが 次の40年に向けて我々は今後とも平和が持続するように努力せねばないと述べられました。

なお 講師は 日本人のシベリア抑留は非合法的なものであったこと、ソ連の侵攻は終戦僅か6日前の8月9日に突如起きたものだったことを残念な口調でちらりと述べておられました。ロシアは最近ではウクライナに侵攻しました。バルト三国は今でも侵攻してくるのではないかと怯えているようです。さらに北方領土や尖閣列島問題もあります。

平和を維持して行くために我が国はどのように対処行動して行くべきかを真剣に考えねばなりません                                                                                                                          MMAさん

日本の近代史を40年ごとに分けそこから未来への教訓を読み取る話はは初めて聞く説で新鮮でした。

 配属されていた関東軍前線のあまりにもお粗だった状況には改めてあきれるとともに怒りさえ覚えます。
 抑留され労働を強いられていた時、ドイツ軍、イタリア軍、犯罪者も一緒に労働させられていたという話は初耳でした。シベリア抑留に対する見方が少し変わりました。因みに私のいとこも抑留され木材伐採に従事していました。思い出話の時よくロスケという言葉をよく使っていました。又、現地の(収容所だけの話ではありません)食糧事情のひどさもよく話していました                                                                                                                        NJTさん 

第一にその若々しさに感嘆しました。声の張りと大きさ、論旨の明瞭さ、年寄臭くない身のこなしなどとても93歳とは思えぬ存在感でした。 

話の随所に学びの深さを感じました。政治的に微妙な問題には直接的には触れずに先人の譬えや格言を引いて、自己の結論を述べるという配慮にも感服しました。       戦争を絶対にしない為にも、先の大戦から色々を学ばねばならない、との思いを強くしました。何故、300万人もの犠牲を生んだ無謀な戦争に突入してしまったのか?    自分なりに理解して、子や孫に伝えねば・・と思いました。

出光佐三店主のこと、イラン制裁に伴う日本の石油事情ひいては最近の介護保険事情などにも質問が出て大変参考になりました。                                      IUYさん

 

体験談は事実の列挙で内容に迫力がありました。親和会サロンも政治、時事関連問題でも今少し掘り下げた意見の交換をしてもいいのかなあと思いました。 NRSさん

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