東京多摩地区現代俳句協会「多摩のあけぼの」会報No.139の
巻頭エッセイに遠山陽子さんが
「豊玉発句集―土方歳三の俳句」という文を
寄せられていて、大変興味深く拝読した。
かいつまんで、印象に残ったところのみ列挙していこうと思う。
土方歳三は1835(天保6)年武州多摩郡石田村(日野市石田)の生まれ。
歳三は自他認める俳人だったらしく、
その唯一残した句集が『豊玉発句集』で、
1863(文久3)年2月8日の新選組上洛に先立つ正月に
一冊にまとめたという。
遠山氏は、歳三の俳句について
“司馬遼太郎は『燃えよ剣』のなかで、沖田総司の口を借り、
「ひどいものだ。月並みだ」と言わせているが、このころの俳句は皆月並みだったのである。“
と語っているが、
「このころの俳句は皆月並みだった」と
サラリと言い切っているのはなんとも可笑しい。
巻頭の一句は
さしむかふ心は清き水かかみ
上洛前の張りつめたなかで
純粋な志を謳っているようだ。
ここで思い出すのが
歳三とは真逆の立場で、
福岡藩(1858年脱藩)の攘夷派志士として討幕論を広め活動した、
平野国臣(1828―1864)の和歌。
この胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山
大学時代に誰からか教えてもらった歌だったが
恋の歌ではないことを後で知った。
村田新八らの手引きにより薩摩藩で共に活動しようとするも、
島津久光や大久保利通の反対にあい失敗、
無念のうちに退去させられた時の和歌だろう。
国臣は、1864(元治元)年禁門の変の騒擾に紛れて、
未決のまま斬首されたという。
ネットでは色々情報を検索できるが、
1860(安政7)年3月3日の桜田門外の変を
国臣は<所から名もおもしろし桜田の火花にまじる春の淡雪>
と詠んでいる。
一方、歳三は<ふりながらきゆる雪あり上巳こそ>と詠み、
(上巳の読みは、じょうし、じょうみ。3月3日のこと。雛祭りのこと。)
こんなところで、発句と和歌の表現の違いも眺められる。
(この写真は記事とは無関係で
鯛スープを取りラップかけていてできた水滴)
話は、遠山氏の論考のほうに戻る。
1868(明治元)年12月29日、
新政府軍の攻撃が始まる束の間、
函館の俳人孤山堂無外主催の句会における歳三の句、
わが齢氷る辺土に年送る
1867(明治2)年5月11日、
新政府軍猛攻撃にて、35歳の壮絶な最期を遂げる。
市村鉄之助が郷里の後援者小島鹿之助にもたらした時の
辞世の和歌は
よしや身は蝦夷が島根に朽るとも魂は東の君や守らむ
歳三の最期の句かどうか断定できないが一応そのようにされている句に
<早き瀬に力足らぬや下り鮎>があるそうだ。
いかなる立場のものであろうと、
若き志士たちの熱い純粋な思いには感涙しきりである。
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