実家にちょっと行ったついでに
懐かしい場所に寄ってみた。
私が、小学生だったころまでは
お正月のときだけ母と
兼朝公の墓に参り
とんと近くの寺(粗末な無住寺)の仏像を拝み、
その後、少し歩いて一集落に一神社みたいな
別雷宮に参拝していた。
菊池家18代当主菊池兼朝公(1383~1441)の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/12/33d419d60b08bc048e93b1d24749982c.jpg)
その寺は、兼朝が建立した正善寺という。
昔から凡そ寺らしくない、
只の民家みたいな感じで
(堂守さんが住んでいたみたいな~)
そこに仏像(釈迦如来像)が安置されていた。
涅槃図も掛けてあったかなあ。
岡田集落の別雷宮
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/b1/41f0e8abb1d98c5a3ed07039a3ac63ae.jpg)
菊池神社の末社か
神事には確か菊池神社の宮司さんが来られていた。
江戸、明治時代に奉納されたらしき絵は
令和元年に修復されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/bf/7387c922678852e4f55884acc3a4d865.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/19/859677cdba0502461ab8111a51b762b4.jpg)
左が笹竜胆の紋で、右が揚羽蝶の紋
これは、何の戦いかな~
源氏と平家か?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/c9/86ed5404e04226d5b8ef58b0e53e3db2.jpg)
明治10年はあの西南戦争の時
菊池あたりは概して西郷軍に味方していたから
その戦勝を祈願するための奉納か
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/65/cd1b9119705324e7934d93841ecdc566.jpg)
其々の武将に記名あるが
右側の赤い甲冑にて勇敢に槍で挑む
加藤清正くらいしか知らない。
明治24年は1891年。
この絵の戦いは、関ケ原の戦いか?
何を祈願して奉納した絵なのかな?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/b3/ceaabb092a3dabdfbb592594401a6e02.jpg)
拝殿に向かって左のほうに巨石が祀ってあるが
風化していて何と書いてあるか読めなかった。
小学生の時には
毎日曜日に拝殿と本殿の板の間の拭き掃除が
集落の女の子の仕事だった。
そして、年末になると
年神さんが通る道(だと思う)を
大人が作るために
リヤカーで川砂を取ってきて、
境内まで運び上げていた。
なぜそういうことをするのか
どういう意味があるのか何も知らなかったー
父が生きている時に
聞いておくべきだったが
若い時にはそんなこと少しも思わなかった。
西郷隆盛の大祖は
菊池氏の一族、
七城町の西郷の出身となっている(増永西郷氏)。
それで、
菊池源吾とも名乗っていた時期があるようだ。
西郷橋は迫間川に架かっていて
実家に帰るときにはこの橋を渡ると
メロンドームが見えて、田んぼが広がる。
西郷橋渡れば花菜わが領へ 知青
▲ 幼きは 遊び放けて 過ぎにけり
大人になりて 聞きたし多し (縄)
▲ 聞きたしや 親はもちろん 物故者に
誰もが思う あれこれそれと (縄)
世のなか中もんは、よく言ったもの・・ガス。
▲ 孝行を したいときには 親はなし
私の父は、68で亡くなりました。
教員をしていて
地元の歴史的な事にも詳しかった人でした。
私は、18歳からずっと県外に出ていて
会う機会も少なく
残念でしたよ。