前号俳句 ふたり合評
俳句の下の()は作者名
鍵のように手を失くす鬼灯市 (未補)
阪野基道 『空席』一連、魅力的な句ばかり。掲句は、鍵と手を直喩で結びつけ、幻想的な句に。省略されている語を補足すれば「〈大切な〉鍵のように手を失くしてしまった」となり、イメージは鮮明になる。鬼灯市に功徳を得るはずが、魔的な雰囲気を纏ってしまった。
男波弘志 鍵を失くして途方に暮れていたとき、やけにボンヤリした浴衣のオンナが僕の背中にキツネの手をかけてお祭りに行こうと言った。鬼灯をくちびると間違えていた子供たちが、浴衣に描かれた鬼灯のくちびるを探して、人攫いにあった夕間暮の隙間を抜け出してぞろぞろこちらに歩いてくる。
荊棘線に蝶はほどけてたなびく白く (さ青)
松永みよこ 荊や棘に突き刺され、身を砕かれようとも、まだ白さを失うことができずますます孤を深める白蝶の気高さ孤高さに圧倒された。蝶々を「ほどけて」、「たなびく」、「白く」とたたみかけるように形容しているのも、蝶の動きを感じられて、哀切さが増す。
竹岡一郎 バラセンに引っ掛かった白蝶がバラバラになって風に吹かれてゆく様を詠ったと見るが、蝶は最初から物質ではなく、魂が蝶と見えていただけか。最後に色が置かれて、初めて蝶の本性が見える。そんな本性なら、たなびくだろう。バラセンはやはり現実の惨さ、春の惨さか。
仕立て良い喪服の裾にレダ白鳥 (阪野 基道)
斎藤秀雄 「レダと白鳥」が亡霊のように《裾》に取り憑いているのだろうか。これはやっかいだ。亡霊に特有の透明性を欠いているからだ。ダ・ヴィンチの、ブーシェの、イェイツのそれへと時々刻々と変転し、結婚式のお色直しの様相を呈してしまう。《喪》は失敗するだろう。
竹岡一郎 スパルタ王の妃レダを、ゼウスが白鳥と化して誘惑した神話は、性愛を暗に描く格好の題材として描かれたが、近代以前は、道徳心に照らして描写露骨、と破棄された物も多い。喪服と相俟って、寡婦の性愛の情景が浮かぶのだが、上五に情景のスタイリッシュさは見える。
芒原乳をしまいし母ぎつね (松永 みよこ)
未補 子育ての役目を終えた《母ぎつね》が、ほっと一息ついてうずくまる姿が浮かぶ。《芒原》にまぎれて、《母ぎつね》の姿が消えゆく感触もあり、物悲しい。しかし、《芒原》を選んだのは、外敵から身を隠す生存戦略かもしれない。《母ぎつね》の強かさもうかがえる。
男波弘志 母が病弱であったせいか、他人の乳を呑んで眼を腫らして泣き叫んでいた。いったい何人のオンナの乳を呑んで育ったのだろうか。首に大きな黒子のあるオンナだけがほんとうの乳母だった気がしている。オンナはいつも芒原の真ン中に突っ立っていた。ハイハイをして乳をもらいに行くことが、オンナを知る最初の儀礼であった。
日に一度外出寒の行として (宮中 康雄)
江良 修 コロナ禍で外出自粛の世の中。外出はできる限り控えておこうと思いつつ、家に閉じこもってばかりでは身も心も萎えてしまう。日に一度の外出を寒行とみなせば頑張っている自分を感じられそうだ。外出の言い訳も立つ。一石二鳥のアイデア。心が軽くなる。
小田桐妙女 日に一度の外出が寒の行とは、外は、ものすごい吹雪なのだろうか。それとも、外出先には寒行のように辛いことがあるのだろうか。辛いことがあった時ほど、外に出るのは悪くないだろう。いちばん怖いのは、何を考えてしまうのか想像できない自分の頭のなか。
月光の常温保存できますか (森 さかえ)
さ青 月光と《常温保存できますか》という言い回しの取り合わせではある。保存できるか聞くなら、残すつもりがあり、月光は残しておきたい光景や時間の遠景か。また、常温と言うことで、月光が差していた空間の皮膚感が思われる。その心地こそ保存したい月光の正体のようにも。
しまもと莱浮 唐の千秋鬼薊以て 無理を承知でラジオ相談室に電話した。里芋は一ヶ月も常温で保存できるのに、満月は十五日で融けてしまいます。今見ている月は前の月と同じでしょうか。あんな所に痣などあったかしら。夜が明けなければよかったのに。
ザ銀座バスコダガマは歓喜した (森 誠)
斎藤秀雄 《ザ銀座》は秀吉の常是座か、一九七五年誕生のブティック(のちスキンケアブランド)か。いずれにせよ十六世紀初頭のヴァスコが、濁点によって日本に召喚される。その《歓喜》はインド航路の発見同様、血に塗れたものであるに違いない。肌の美しい殺戮者であれ。
しまもと莱浮 強大さの音象徴である濁音からもバブル期の繁栄が連想された。小雪舞い散る時計店、祭りの後の淋しさもいや増す。インド航路の開拓者によってガネーシャとも繋がるし、ポルトガル国旗から柊、柊からイヴへと戻りつつ、幻想は第九に帰る。デカビタCに乾杯。
林檎転がる象は逆立ち (石田 真稀子)
江良 修 古代インドの宇宙観を示す亀蛇宇宙図。亀の上に象が円を描くように並び地球を支えている図だ。林檎転がるからはニュートンの万有引力の法則が想像される。万有引力に従えば前述の図の象は重力によって逆立ちしていることに。機知に富んだ愉快な句と思う。
男波弘志 シュールレアリスムの絵画の手法を用いてモノを投げ出したのだろう。絵画の場合はそれを観た者に、色、容、が明らかに表現されている。言語表現で顕された場合、イメージを創造し、映像化するのは読み手だけである。サーカスの一場面であろうか。それ以上は何もわからない。
クロスワードの中一人芝居の紅葉 (内野 多恵子)
江良 修 タテヨコのヒントから言葉を探し出すクロスワードパズル。そのヒントの一つに紅葉があったのだろう。しかし、タテヨコがうまく繋がらない。タテヨコの協力無くしてパズルは解けないのだ。浮いてしまった言葉「紅葉」。窓の外には本物の紅葉が舞っているかも。
未補 《クロスワード》という文字だけの世界にあって、《一人芝居の紅葉》の鮮やかさがひときわ目を惹き、美しい。しかし、他の単語をすべて背景にして《一人芝居》をしているつもりでも、《クロスワード》のなかでは、ただ一つの答えを導く一部でしかないのかもしれない。
記録から記憶を探すナナカマド (江良 修)
下城正臣 最近は、記憶が揺らめき、かつ思い違いのままそう信じ込んでしまったりする。日記でも出納簿でもいいが、何らかの記録を紐解くと、自分自身を探し出すことが出来る。おや、わしも案外輝いていたんだなぁーとかー。そう、ナナカマドはあなたご自身です。
竹岡一郎 記憶を辿ってゆくという作業を、ナナカマドの性質に喩えたか。赤い小さな沢山の実が記憶の一粒ずつで、「七日竈」という語原にあるように、七日間炭焼竈にくべて炭を作る如く、記憶を燃え立たせて探ってゆくと読んだ。その記憶は、恐らく燃え立つように美しいのだろう。
衣更ふ少女につつと小さき角 (小田 桐妙女)
森 誠 少女の角は新芽、形が角に似ている。やがて葉となり花となり、角は消えるが、少女の自立心は成長する。
阪野基道 脱皮をするような衣替えが心地よい。少女が鬼の子かユニコーンの子か定かではないけれど、愛憎を昇華させるための小さな角が、つつと生えてきたのは確か。しかし実際にはツノなどはなく、少女が女へと成長するには、見えないツノが必要、ということなのかも。
いわし雲なんども使ったことばたち (男波 弘志)
小田桐妙女 「なんども使ったことばたち」とはどんなことばなのだろう。愛の囁きを想像したい。白くて細やかな雲片の淡い群れ。いつまでも眺めていたい。そして、いつまでも思い出に耽っていたい。いつかは、消えてしまうのだが。こんな一人きりの時間を糧に生きてゆく。
しまもと莱浮 中八が温かい。何気ない日常会話だったのかもしれない。ケンカになったこともあろう。離別、世界は変わり行くけれど、名残は何時までも消えない。虚空が澄むと漂って、見上げるとそこに居る。わかった、書き写しておくよ。じゃ、また洋墨の滲みのなかで。
落ち葉掃く隣りの隣りのその人も (柏原 喜久恵)
森 誠 落ち葉掃きを徒労とみるか勤勉とみるかは人によって異なるが、きれいに掃かれた庭は一種の達成感である。
江良 修 絶え間なく降り注ぐ落葉の様子。一読、街路樹の通りかと思ったが、「その人も」が気にかかり読みを変えた。落葉の元となる木が「その人」の家の木なのだろう。顔を見合わせて、すまなさそうな顔をしている「その人」が浮かんできて、思わず笑ってしまった。
いずれにせよ探梅といふ忘れ物 (島松 岳)
下城正臣 島崎の百梅園など梅の名所はある。桜は、校庭や公園のどこでも仰げる。昔は梅が日本人の花の王だったが、その後、探梅への関心興味は薄れ、忘れ物的になった。だが、梅をなおざりにして風流と言えるだろうか。「梅が香にのっと日の出る山路哉 芭蕉」。
小田桐妙女 冒頭の「いずれにせよ」がくせものである。なにに対しての、「いずれにせよ」なのか。どこか旅先から帰ってきた家族同志が揉めているのだろうか?一人旅から帰ってきて、自問自答しているのだろうか?いずれにしても、梅を見る事を忘れてしまったようだ。
画家老いし西瓜も筆も鼻も揺れ (下城 正臣)
松永みよこ 「老い」に敏感になると色々思い当たり、やってられないなと思う。なかでも画家の老いは筆の線に如実に表れることは想像できる。画家は老いることで、自在で奔放な線を出せるようになってきたのか。すべてが揺れる世界に住めるのなら、それも楽しそうだ。
未補 老いゆえに、《西瓜》を描く手元が覚束ないのだろう。《筆》だけでなく《鼻も揺れ》るのが面白い。《鼻》が揺れるほど、はげしく顔を揺らしているのかもしれない。また、芥川龍之介の『鼻』に出てくる長鼻の高僧も想起する。《西瓜》の絵は歪であろうが、若くしては描けない傑作の予感もある。
子路がゐて顔回のゐる良夜かな (瀬角 龍平)
下城正臣 この句の御縁で、孔門十哲について多少学べた。中国人にはなじみの人々のようだ。優れていて人間的、実
際の治世に参画している人もいる。粛々と師のうしろに付き従っているだけではない。孔子は教え、彼らは実践し進む。その彼らが、今夜はすぐ近くにいる。
阪野基道 十年ほど前、吉川幸次郎全集の『論語』を、一年かけて読了。子路の剛勇快活さと顔回の徳行真面目さを、儒者・吉川教授は孔子とともに愛していたようだ。吉川教授は支那服を着て大学構内を闊歩し、講義をしていたとか。儒教といえば古めかしいけれど、徳のある夜は「良夜」としか表現できないものかもしれない。
あの世でもいいねと西瓜愛されて (竹本 仰)
男波弘志 スイカの姿形を観ていると、どこにも嘘がない。噛り付いた後に無限に種を吐き出している大人を観て、自分はいつもこの人は種を吐き散らすためにスイカを食べているのだと思っていた。シャツの前身をびしょびしょにしている姉妹の横にいて、まだ六歳だった自分が、二人の女と不思議な情交を結んでいたのを爪の先が覚えている。
斎藤秀雄 「此の世で愛された西瓜が、あの世に行っても愛される」とも読めるが、「いまここがあの世だとしてもいいね」とも読める。いずれで読んでも、餓鬼棚に供えられる《西瓜》が《あの世》への、水分の多いルートを確保する。《西瓜》は愛された故人のように感ぜられる。
健康てきな眼をした猫は不健康 (いなだ豆乃助)
森 誠 健康は自由。存分に謳歌した自由も制限のときを迎える。猫の天運は猫のものである。
松永みよこ 猫の目は美しい。だが、どう美しいかと尋ねられたら困ってしまう。猫はもともと不健康や不安、憂鬱の方がスタンダード(主流)で、健康的な目をしていては物足らないのだろう。この句を読み、健康的なものはどこか嘘っぽくて不健康に近いのだと思わされた。
オレンジに塗りつぶされた受けこたえ (しまもと莱浮)
松永みよこ 「塗りつぶす」という言葉はよく使われるのに、案外強烈だ。接客バイトの新人が、受けこたえのマニュアルをチェックペンで塗りたくって丸暗記しているのだろうか。それとも、「受けこたえ」そのものがオレンジに塗りつぶされたと思う方が不思議で楽しいか。
さ青 塗り潰すなら《オレンジ》は色のことで、答える人物の何かを覆い隠す。《オレンジ》一色だと相手に思わせる画一的な対応なのだろうが、どう画一的なのか想像する時、読み手は自分の中の《オレンジ》のイメージをつぶさに当たることになる。私は笑顔過剰の接客を想像。
血は泥に胎凍て地平窯変す (竹岡 一郎)
斎藤秀雄 絶対零度の空間で《胎》は《凍て》、hum(土)から創られたhumanは《泥》へ回帰する。ここは過去か未来か。おそらく何度も繰り返す現在だろう。《地平》が爛れたように美しく色彩を変性させる様は、時劫の過去と未来を、円環状に結ぶ、次元の歪みの感触をもたらしている。
さ青 血は泥に落ちる、混じる、変質する。胎児も胎盤も母体も懐胎も、凍てれば健やかではいられず、それが負荷となって窯変を招くのか。その果てに窯変が訪れるのか。窯変した地平に、血は胎はまだあるだろうか。完成型を得るまでの変遷に、変種の無数の失敗と滅びを思う。
斬新な蝶は鼻毛を伸ばしたる (加藤 知子)
未補 《蝶》は虫か。ホステスか。人の鼻は蝶の触角にあたるので、伸びた触角を《鼻毛》に喩えていると読める。だが《蝶》が虫であれ、ホステスであれ、実際に《鼻毛を伸ばし》ていると読んだほうが《斬新》さはある。《蝶》は美しくあるべき、という人々の期待を、ユニークに裏切ってくれるのだから。
しまもと莱浮 蝶が口吻を伸ばして、夢中で蜜を吸っているさまに、生命維持のための食欲だけではない、倒錯した恋愛感情のようなものを感じ取ったのかもしれない。それは、感覚的で主観的で直接的な、ナ形容詞の大鉈を振るうことでしか、表現できなかったのであろう。
窓をつくる牛の内壁月よくみえ (斎藤 秀雄)
阪野基道 ピカソが描く隆々とした筋肉を持つ雄牛の群れ。あるいはミノタウロスの酒宴。それらが壁となって外を塞ぎ、窓のような隙間から光が差し込み、満月が鮮明に見えるのだ。いや、どうも違う。牛が衣服を脱がされるように、皮を剥がされているのだ。屠殺者によって皮を剥がされた牛がずらりと並び、月に照らされている……。瞑目した身体感覚のような世界、あるいは未開部族の祝祭・儀式の趣もある、と言えば飛躍か。
小田桐妙女 勝手に「内壁」を「内襞」と読んでいた。「牛の」からの私の思い込みで、「内襞」のほうが読みやすい。牛の胃の内側は、牛舎の中にいるある一頭のための牛舎。反芻する牛の胃には、窓があるように思えてくる。よく見える月は満月か三日月か、それとも無月か。
参加者にはタイトル付きで10句を提出してもらっていますが
全員の句からそれぞれ一句ずつ加藤が選び、割り振って
2名の方がたに評をしてもらっています。
評にも評者の個性が出てきます。
評あるいは鑑賞も
一つの作品とも言えると思います。
今号の背表紙の俳句は
夜の桃平均台を転びくる 斎藤秀雄
でした~