四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

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先パイには林葉直子がいる 頑張れ女流名人里見香奈(17歳)!

2010年02月11日 17時54分52秒 | 社会問題
15歳で女流名人になった林葉直子のころは女性の棋士は少なかった。
そのため男性の棋士のいいなりに身体を預け指導を請うた時代である。

お騒がせ林葉直子はついには過激ヌード写真からポルノ女優にまでなり、衆目の目を楽しませたのである。将棋を知らない少年たちも林葉直子の名前を聞くだけでわくわくどきどきしたものである。

だから、若くして棋界に出ることは単純に喜ばしいことではない。今後の流れによっては先輩のパイが役に立つことになりかねない。

人生は常に奢(おご)らず、石橋を叩いて、石橋を壊し、決して大河は渡らない方がよい。

私の期待する10代は、人生の師となる人である。達磨大師やレオナルドやベートーヴェンのような人間が出ることを期待しているのであるが、中々出てこないので不思議に思っている。


http://mainichi.jp/enta/shougi/news/20100211ddp041040027000c.html

将棋:第36期女流名人位戦五番勝負 17歳里見が女流名人 史上3番目の若さ
 ◇出雲市在住 倉敷藤花と2冠

 将棋の第36期女流名人位戦五番勝負の第3局が10日、東京・将棋会館で行われ、131手で挑戦者の里見香奈倉敷藤花(17)が清水市代女流名人(41)を破り、3連勝で奪取した。里見の女流名人獲得は初めて。元女流棋士の林葉直子さんの15歳、中井広恵女流六段の16歳に次ぐ史上3番目の若さで、女流将棋界で最も伝統のあるタイトルを手に入れた。

 里見は倉敷藤花と合わせて2冠。10代での2冠制覇は、林葉さん(15歳で女流名人・女流王将)に次いで史上2人目だ。清水も女流王位・女流王将の2冠になった。

 里見は第1局で三間飛車、第2、3局では得意の中飛車を採用。19歳で女流名人となって以来、第一人者として女流将棋界を引っ張ってきた清水を、力強い指し回しで圧倒した。

 里見は森〓二九段門下で04年10月、12歳でプロ入り。08年に初タイトルの倉敷藤花を獲得し、09年は防衛した。島根県出雲市在住で、県立大社高校3年生。高校時代最後の大舞台で「目標にしていたタイトル」をつかみ、「プロになってからの約5年間は、あっという間だった。あこがれの清水さんと対局でき、さらに結果も出て、うれしい」と喜びを語った。【金沢盛栄】
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産経ニュース

林葉直子さん「将棋も私も愛してくれた」
2009.3.12 07:34

林葉直子

 過去に中原十六世名人との不倫騒動で世間を騒がせた元女流棋士、林葉直子さん(41)さんは11日、中原氏の引退表明について、サンケイスポーツの取材に事務所を通じて「お疲れさまでした。将棋も私も愛してくださって、ありがとうございました」とコメントした。

 2人の不倫交際が週刊誌で報道されたのは98年。週刊誌報道を受け、中原氏は川崎市内の自宅で会見し、92年から5年間にわたった不倫関係の事実を認め、世間を驚かせた。ワイドショーでも連日報道され、林葉さんの留守番電話に録音された中原氏の「いまから突撃しま~す」などの肉声はセンセーショナルに取り上げられた。

 林葉さんは現在はタレント、タロット占い師などとして活動している。




豊田社長の謝罪の角度 日本の企業社会の歪な常識

2010年02月11日 15時02分00秒 | 事件・事故・自殺
なぜ豊田社長の謝罪の角度がアメリカのマスコミで話題に上るのか?
そもそもお辞儀に角度を設定する日本社会の歪さがここでは逆手に取られ、日本潰しに輪を掛けている。

『国家安康』にいちゃもんを付けた徳川家のために豊臣家が滅ぼされたようなものである。

たかだか例の角度に意味づけする日本の奴隷制度はいとも容易く受け入れられるのは、「大衆は奴隷になることを望んでいる」と行ったマキャベリの言葉に当てはまる。特に東洋人は奴隷になることを自ら求める大衆の数が圧倒的に多いため、民主化というものが中々成功しない。

これらはまた、白人社会に迎合してきた政治家や企業にも言えることであり、日本の悪しき封建制度をそのままに、企業が受け継いだことの弊害でもある。

礼の角度でさえ、身分を現さなければならない上、敬語にしてもそうであるが、ことの他煩雑さを好むが返ってそれさえも逆手に取られかねないのである。

つまり、自然体であれば何も問題は無いが装飾を多くすればするほど、それにならされ経費も時間も多く取られ、肝心のことに割ける時間を損失するのである。

豊田と家康の関係は、家康の祖・松平氏は奥三河の松平郷から出た。現在、ここは豊田市松平町となっている。(神一行・『閨閥』から)

「国家安康」に絡むことがらに関しては豊田は徹底的に攻撃性を発揮するが、今度は自社がその攻撃にさらされているのである。企業間の太平洋戦争が始まっているようなものである。

国家安康

方広寺鐘銘事件

方広寺の鐘銘

慶長19年(1614年)、慶長14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。

且元は駿府の家康への銘文の選定や大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行い上棟は間近であったが、7月29日、家康は家臣の本多正純を通じて、梵鐘銘文の文中に不吉な語句があるとして、大仏供養を延期させた。家康は五山の僧(金地院崇伝ら)や林羅山に鐘銘文を解読させた。崇伝らは、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。また、林羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると解釈している。

この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的である。しかし、清韓自身は家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しており、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している[6]。当時、基本的に諱で呼ぶ事が出来るのは両親、主君そして敵であり、通常は名字+官職名もしくは通名等で呼び、諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった事を考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたという性格の方が強い。




米大衆紙「豊田社長のお辞儀の角度が浅い」
<2010年2月11日 14:14 >  アメリカの大衆紙は、「トヨタ自動車」の豊田章男社長が日本時間9日にリコールを発表した際の会見について、「お辞儀の角度が浅かった」と指摘した。

 10日付の大衆紙「ニューヨーク・ポスト」は、豊田社長が謝罪した際のお辞儀について、「上半身の角度は60度だった」とし、「たった40度だった先週末のお辞儀よりも誠意がこもっていた」とする記事を掲載した。一方で、「日本で謝罪の際に必要とされるお辞儀の角度は75度」と紹介、「そこまでまだ足りていない」と指摘した。




子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?