四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

ガイアの夜明け ばんどう太郎 小山中央店 小山50号店

2010年02月02日 22時26分40秒 | 食文化
悪名高き『ばんどう太郎』

小山50号店と小山中央店に入ったことがあるが、田舎ものの入る店で野良仕事が終わった人たちやダンプのあんちゃんたちは比較的はいるようである。

この2店とも国道50号線沿いにある。

とにかく注文してから注文のものが中々出てこない。
店員はダレていて、やる気があるのかないのか?

小山中央店は笠間美術館からの帰りに寄ったことがある。
うどんを頼んでもなかなか出てこないし、出てきたうどんはのびているしと、その後滅多なことでは利用しない店になっていた。ばんどう太郎とは「利根川」のことをいうのである。

50号店には夫婦で入ったが、他に店舗がなかったので、ここに入ったが注文を取りに来るのも遅く、ここもやる気のないおばさんが出てきて、注文してから30分近く待っても何も出てこない。家内と話しながら時間が過ぎるのを待ったが、あまりにも遅く、客も私たちだけであったので、そのまま出てきたことがある。

それ以後、絶対に行かない店になっている。

その店を「ガイアの夜明け」で取り上げている。

この番組は中々良くできているようでいて、結構取材不足があり、かなり手抜きをしているので気を付けなければならない。


以前、ジンギスカンのカルニチン堂を取り上げていたが、町田に居たこともあり、長崎堂の直ぐ近くにあったので様子を見ていくとすぐにつぶれてしまった。

何か、ものすごく流行っているように宣伝していたが、人気は全くなかった。
高崎店も閉店している。

とにかく、ばんどう太郎などへ行く奴は味覚障害があるのかと思える。

ガイアの夜明けは疫病神だとするブログが多い。
司会者が変わったのだからタイトルも変えて、『ガイアの日没』の方が似合っている。

金とプラチナの高騰を「ガイアの夜明け」でやった翌日わたしは御徒町までプラチナの指輪を売りに行った。ガイアの相場は6000円だったが、御徒町に行くと最近値段が半分に成ってしまったと言はれた。仕方なく1g3000円で売ることになってしまった。

ガイアを信用しすぎたのでこういうことに成った。
ここも新聞も売れないしスポンサーも付かないから、勝手にスポンサーよいしょの番組を作っているのだろう。



子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

間違いのないこととは何か? 良い生き方とは何か? 自然は嘘はつかない!

2010年02月02日 02時57分32秒 | 文学・思想
今や人間の生き方はさまざまである。
どのような生き方もできるが、それが許されているかどうかは疑問の残るところである。

自然が行うことはわれわれの判断とは異なっている。
日照りが続くと雨乞いをする。雨が降り続けると日乞いをする。

自然はわれわれからすると身勝手である。しかし、どのような自然の中の現象を間違っているとはいえない。

そもそも太陽が出てきて朝になり、太陽が沈んで夜になることを誰が間違っていると言えるだろうか?

元日に初日の出をありがたがるのは、それは太陽がありがたく自然がありがたく思うからである。

高い山に登って喜びに満ちることも自然があるからであり、世界最高峰のエベレストに登ってありがたく思うのも自慢が出来るのもそこに自然が形成した山があるからであり、登山に失敗したからといってその山が間違っているとはだれも思わないであろう。

エベレストに登れなくあえなくなくなっても、エベレストのせいには出来ない。運が悪かったか、技術が未熟だったか、人間の方に問題があるとするのが普通である。

災害が起こるのも地震や竜巻が起きるのも、ダムが決壊するのも自然のせいには出来ない。
天災は自然が間違っているから起こるとは考えない。そもそも災害の責任は人災によって被害が起こる。ダムが決壊するのはその作り方が悪かったからだと考える場合が多い。原子力発電所が事故で危険な状態になるのも自然が悪いとは思わない。常にわれわれは自然は正しいと考えている。しかし、自然災害は恐ろしいからその恐ろしさから逃れようとあれこれやっているのである。災害を阻止するために新しい災害を起こすのは人間側が間違ったことをわざわざするからである。

自然災害で被害があった人たちは不幸である。しかし、その被害に対して自然を憎んでも埒がないことをわれわれは知っているのである。地震が来て家族を失ったと言って、地面を仇のように思って締めを毎日蹴ったり殴ったりはしない。そんなことをすれば周りからは気の毒に気が触れたのね、と思われるし、自分の足や拳がさきにやられてしまう。

自然はあまりにも偉大であるし大きい存在なのでわれわれが立ち向かっても、敵う相手ではない。
しかし、人々は自然災害に立ち向かおうとしている。いつ何時今までになかったような大地震が来るとも知れないが、一生懸命耐震住宅を建てている。地面に亀裂が入ったらどうするというのだろうか? 自然は予測不能でもある。

人間はいつ何処で死ぬかは分からない。いかに耐震に備えた家を作っていても、歩道を歩いていると自動車が突っ込んできて、死ぬ人があとを立たない。居酒屋で酒を飲んでいても自動車が点難易突っ込んでくると避けようがない。

なぜ、人は地震に用心しながら日常のことに用心しないのであろうか?
自動車事故の方が大地震よりも起こりやすいのである。それほど命が大切なら、自動車など作らない社会を作る方が良いのではないのか? それでも自動車が大事だと考える人は、自分の命よりも自動車が大事なのである。

生き方が狂うと、おかしなことばかりやっていながら、正しいことが分からなくなる。
自分の家族を大切にしないで、自動車ばかり磨いている人間を数多く見てきたが、この人たちは自動車のために生まれてきたのであろうか、と思ってしまう。

自然に従っていれば人間はそれほど間違ったことはしない。
昔のひとたちは災害に備えて質素な家を建てていた。いつでも簡単に立て替えができ、資財を賭けないため災害にあっても、また作ればよいと考えていた。自然災害で家族をなくした人々は悲しい思いはするが、人災ではないから恨みをいつまでも持っていることはない。自然を恨んでも致し方がないから、悲しんでも故人を慈しむことに集中できた。これが恨み辛みをもっていると敵討ちをしないでは済まされなくなる。

人は五体で生活を凌いできた。
わたしは東京へ17歳で出てきたが、ストーブも電気釜も冷蔵庫も掃除機も電話も時計も持っていなかった。鍋一つでご飯を炊き、おかずも炊いていた。冬にも靴下さえはかなかった。年がら年中下駄でコートの変わりに剣道着を着ていた。新幹線に乗るときも剣道着と下駄で絵を描いていたので絵の具箱は常にぶら下げていた。金相場のバイト先では相場に関係していた、宝田明の新橋演舞場の一等席のチケットを八枚独り占めして演劇を見に行ったときも剣道着と下駄で行った。舞臺から宝田明が驚いた顔でわたしを見ていた。指定席8枚を手にしているからわたしの前後左右は誰もすわっていない。しかし、わたしは真剣に見ていたが、宝田明の方はだれた芝居をやっていた。

つまり何にもなしでも生きていくのには困らなかった。
あまりにも世の中がおしゃれに成りすぎて、その実面白味がなくなった。
当時美術館も安かったし、上野の美術館の食堂は町中の食堂に比べてはるかに安く、頻繁に出入りしていたことがある。なお、国会図書館別館も博物館の隣にあったのでそこで、よく哲学書を読んでいたのである。

いろいろ面白い話はあるが、とにかく自然に即して生活することの方が様々な問題を解決する上で便利である。敵が責めてきても別段区にすることもない、覚悟さえ出来た居れば知恵で相手をねじ伏せることが出来るものである。

今、『達磨大師』の映画をみていてそんなこともあり得ると考えている。
偉大な精神は時間を超えて生きていることは慥かである。達磨大師のことは知らなくとも、高崎の達磨弁道は多くの人が知っている。選挙ではおなじみのあの達磨を見たことのない人はいないであろう。偉大な精神は時間を超えて生きていることは慥かである。

尚かつ自然は常にあらざる事なしである。


子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

言語力 読み書きそろばん 古文・漢文・珍文・携帯

2010年02月02日 00時01分22秒 | 美術・建築・工芸
日本の小型本屋はほとんど消滅し、古書店も無くなってしまった。
ブックオフやエロ雑誌・漫画を扱っている店はまだまだ健在であるが、この程度の文化的基盤しかない我が国に言語力を望むだけアホなのである。

東京には三省堂・東京堂書店・八重洲ブックセンター・紀伊國屋・丸善・ジュンク堂などがある。
しかし、関東一都六県の他県においては、一応間に合う本屋は前橋にある煥乎堂くらいではないだろうか。

この内、紀伊國屋は洋書売り場しか行かなくなったし、丸善は改築されてからは一度も行っていない。
とりあえずは池袋ジュンク堂と新宿ジュンク堂と三省堂に信山社へ行くが、買いたい本がほとんどないのが現状である。

とにかく内容のある書物の少なさには驚くのである。ヨーロッパの本屋巡りを以前は頻繁にやったが、かならず近代の著名な作家のものは置いてあるし、古代から中世のものもちゃんとコーナーを設けている。アメリカは書店に関しては内容は豊かである。専門学校の学生でも専門書をよく読むし、暇があったら書店へ行く習慣をもっている。授業に参加したこともあるが、ひっきりなしに質問するところを見るとその点だけでも彼らの言語力に敬意を表さずには居られない。観光地へ行っても厚いペーパーバックをガンガン読んでいる。

日本では電車内で本を読んでいる光景がほとんど見られなくなった。皆、携帯の狭い画面で何かをやっている。大体ゲームが多いようである。視野が狭いから眼球運動をほとんどやらない。どういう影響があるかはいろいろな本が出ているからそちらを参考にすれば良いのだが、読書する習慣がないからそういうことにも興味がない。

言語力とは自分の意見をはっきり言えると言うことであるが、その意見さえないのである。日本の学生は質問をしない。教師に質問してもこんどは教師から回答が返ってこない。解答ではなく、返辞そのものが返ってこないのである。

以前アメリカのカリフォルニア大学バークレー校から数十人の学生が京大文学部に留学していた。しかし、授業は退屈で何を教えているのかも分からないという。このような情熱のない授業を続けていても時間の無駄であるというので全員が帰国してしまったというのである。日本の京都大学でこのレベルである。とにかく、もはや言語力など日本に芽生えることはほとんどないであろう。白人社会では読み書きはOSに相当するのである。彼らの根底にあるのは聖書とギリシア神話と古典文学である。とりあえずは貴族階級とエリート階級にはこの伝統が受け継がれている。日本にはそういう高度なものがない。

「アメリカの植民地に考える力は必要がない」という戦後の政策はものの見事に成功した証拠である。
幸いその影響を受けずにわたしは育ったので、神様に感謝するのみである。

めかけは旦那のいうことを聞いていれば悪いようにはされないが、旦那の景気が悪くなると奴隷にされるか、反抗でもすると首を切られるのが落ちである。

そもそも考える力というのは、特別な人間に与えられた能力であって多くの人間は考える力をもっていないという。
たしかにこういう文章は考える力で書いている訳ではない。天才たちの文章は全く違った構成法や特殊の文法を使い、普通の文章を書く、まず我々が書いているのはほとんど誰もが思いつくことを書いているにしか過ぎないのである。
つまり単なる思いつきで、同じような内容のものが大量に生み出される工場製品にちかい。

たとえばこれを文章ではなく、音楽や絵画で考えると、だれもがほとんどずば抜けたものを下記得ることはないのである。この世に生存する人間がどんなに頑張ってもミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチにはなれないようなもので、駄作の製造者にとどまるのである。

われわれがカントやフッサールのような考えを持ち得ないし、トーマス・マンの文章を書けるわけではない。どのブログを見てもどんぐりの背比べである。

少し前は猿にも分かるシリーズとか携帯を持った猿とか、人間を猿呼ばわりした幸福な時代があった。今では、猿にもたとえられないほど劣化して、アメーバの領域にまで退化したようである。このような中から立派な人間が生まれる確率は少ないだろう。