戊辰戦役の戦いの一つ・秋田戦争時の庄内藩兵です。
秋田方面では、薩摩、佐賀藩などの増援を受けた久保田藩などの東北官軍諸藩を相手に奮戦しておりました。北越にも長岡支援の為に派兵していますね。
猛将酒井玄播に率いられた第二大隊の”破軍星旗”は有名ですね。
慶応三年暮れ、翌年の鳥羽伏見の戦いの発端ともなった三田の薩摩屋敷焼き討ちを実行したことで知られる同藩ですが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一翼を担い、活躍しました。
藩御用商人の本間家からの献金と軍艦の売却費を使い、スネル商会から大量に武器を購入して装備を整えておりました。
主力のエンフィールド銃をはじめウィットワース銃や、シャープス、スペンサーなどの後装単発/連発銃を装備していたようです。
対する久保田(秋田)藩は甲冑に火縄銃装備だったようです。
天頂部が丸くなった朱の丸入り陣笠は現存。筒袖だんぶくろの色は致道博物館のある「戊辰戦争絵巻」を参考にしました。
絵の庄内藩兵は黒い朱の丸入り陣笠に筒袖紺・ダンブクロ黄色の者、筒袖黄色・ダンブクロ紺の者、全身紺の者に全身黄色の者か白いダンブクロのものなどバリエーション多彩です。
この絵図のカラーリングは参考になるかは不明です。しかし、当時軍装を黒に統一していた米沢藩兵が「米沢の烏」、仙台藩の衝撃隊が「烏組」と呼ばれていたあたり、
奥羽の諸藩では紺や黒で統一した軍装は珍しかった物と思われます。(太田臨一郎『日本近代軍服史』参照。庄内藩兵の軍装に関しては『武器と防具 幕末編』も参考にさせていただきました)
イラストではスペンサー1860騎銃を持たせてみました。左腰のでかい箱はブレークスリー式70発入りカートリッジボックスです。
この弾薬盒、ストラップの片方がフック式で取れやすく、腰ベルトを後ろのループに通さないとダメみたいです。
スリング代わりに紐を使っていますが、これは北軍の騎兵と先住民の戦士の遺品にある装備方法と同じようにしてみました。
もともとスペンサーカービンにはハンドガード部にスイベルリングがなく、騎兵用の担帯の使用を前提としていました。
しかし使い勝手が悪かったのか、銃身部に革製リングを付けて歩兵用スリングを装備したものが現存しています。
1865年型になってようやくスイベルが追加されました。
ペリーあたりから西南戦争ぐらいの時代は
興味深いのでかなり参考にさせてもらっています。
幕末ものなど大好きで毎回楽しみにしてますので
これからもよろしくお願い致します!!!
ここの所非幕末系ばっか&更新頻度遅くて申し訳ありません。
まだまだネタ掘り起こしに力入れていきますので、これからも生暖かく見守ってやってください…。
こちらからも、どうぞよろしくお願いいたします。
鳥羽伏見以降、関東、奥羽、蝦夷と主要の戦闘は銃器主体でした。
銃器だけは南北戦争終結であまった物が大量に入ってきて、各藩がこぞって購入しておりました。
戊辰戦争では、官軍諸藩、奥羽越列藩同盟共に洋装/半洋装+洋式銃というのがスタンダードな藩兵の装備でした。
甲冑装備藩もいましたが、単に財政難で洋式兵制にしたくてもできなかった所があったようです。
>足利藩
手持ちの資料にはなかったのですが、某書籍の表紙を見たのですがどうも合印付の三斎羽織が現存してるようですね。
興味があるのでちょっと調べてみようと思います。
この度、日本文学館より小説「渋太夫自害」を67歳で初めて書きました。
全国の書店で購入できますが、無名の新人ですので取り寄せになると思います。
内容は奥羽鎮撫総督「九条道孝」が海路より仙台に入ってから会津降伏までの約半年間、
北は「きみまち坂の戦い」から、南は「旗巻峠の戦い」、「世良修蔵事件・秋田川反事件」、
これらのかかわりなどを、パノラマ的にとらえたつもりです。
それと幕末の桜田家と「養賢堂・北辰一刀流・清河八郎・坂本龍馬」のかかわりや、
山南敬助と桜田家の関係も書いております。(販売は10月からです)
アマゾンで取り扱ってたらチェックさせていただきます。
作家デビューおめでとうございます。
どんな年齢からであれ、自分の作品を世に出せるというのはとても素晴らしいことだと思います。これからも頑張ってください。