鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.27「知識を造る国とコピー(輸入)する国」

2005年12月23日 | 「考える宗教」へ


~~鹿嶋春平太です。
 日本全国、雪ですねえ~。

 前回、自然を経験的に考えて出来た蓋然的知恵から、全く別の性格の理論が枝分かれして出てくる様を示しました。
本来蓋然的な知恵だったものから絶対法則、絶対真理が出現するんですね。
かくして、本来一種類だった知識が、二種類に多様化します。

 この二つは、中国というう一つの国の中にも生じます。
しかし、これを中国と日本、あるいは、中国と朝鮮といった国で比較すると面白いことに気づきます。


                  


 中国は、風水の知識を造った国です。オリジナルな国。
対して、日本や朝鮮はそれを輸入してコピーした国です。

 そして、オリジナルな国では、この知識は蓋然的な知恵であると意識する人が、思想的なベースを形成します。
絶対的な真理・法則と受け取る人もいますけれど、そういう人も結構多いですけれども、
そういう意識はその国の基盤を形成することはないようです。

 対して、日本や朝鮮などの輸入国では逆になるように思われます。
つまり、中国の知恵、風水の知恵が、絶対的な法則として輸入されコピーされる傾向が大きいのです。

 風水が最初に先進国の文化として入りますと、絶対法則が風水に対する意識のベースになります。
これが文化を創った国と、それを輸入する国との意識の対照です。


                  

 どうしてこうなるんでしょうねえ。たぶんこういうことでしょう。

 経験的に出来た知識文化の発祥地では、それが造られていった過程の感触が残っていくんですね。
その地の人民たちには、知識と共に、それが経験的に考えられていった過程の情報もまた、残像として残るわけです。

 ところが、輸入する国の人民にはそういう情報はありません。
結果として出来た文化知識だけを「価値ある知識」として受けとるわけです。

+++

 昔は、中国は遙か彼方の遠い国でしたからね。
今のように、ジェット機で1~2時間でいかれるようなところでなかった。
日本の場合は、海の遙か彼方の夢の先進国でした。

 そこへ空海、最澄といった頭のいい人が選ばれて遊学しました。
こういう人の持ってくる出来合いの知識の一つが、風水などの知識文化でした。
これはもう、日本や朝鮮などの人々にとって別物になります。
現地の中国の人々にとってのものとはかけ離れた状態で、光り輝きますよね。

 結論だけの知識が光り輝く。もう、絶対法則的になる可能性は圧倒的に大きいですよね。

 また、絶対法則的に受け止めますと、その国ではさらにそれを純化させようとする力が働きます。
知識文化の輸入国では、それをそのまま利用するだけでなく、更に展開して洗練させようとします。
それを絶対法則の前提でやろうとしますから、さらに純化させることになるんですね。

 韓国での儒教思想は、本家本元の中国のそれよりも、遙かに純化されたものになって国民に深く浸透しています。
現在、中国人は儒教思想を軽く受け止めている傾向が大きいように見受けられます。
対して、韓国人は非常にまじめに深く受容しています。
それが日常の考え方にも、かなり色濃く反映している様がよくみられます。



                  


<知識に縛られる>

 すると、日本や朝鮮などでは特異なことがおきます。
 第一に、そういう輸入国ではその知識に縛られるようになります。

 もちろん、使いもします。けれども、それを超えて、それに束縛されるようにもなっていくんですね。
絶対の真理・法則ですから、もうそれに沿わなければならない。
ここに意識の重点をおいて、それでもって自分を縛っていくようになるんです。

 第二に、それに「恐れ」の気持ちが増し加わっていきます。
風水ではそれに従うべきとする根拠が、鬼とかカミサマとかの怖い行動ですよね。
その結果、文化輸入国の人民は、多かれ少なかれ恐怖で萎縮しつつ従うことになりますよね。

 また、その鬼とかカミサマとかは経験的に認識できないものです。
そんなところでそんなものが働くだろうか、と思っても、「そうでない」と反証することは不可能なものです。
だから、「まあ、万一そうなるといけないから(怖いから)、従っていこうか」ということになるんですね。

 ここから「触らぬカミに祟りなし」というかの有名な格言が生まれます。

 第三に、人々に、文化知識というものは、なぞってコピーして習得するものだという通念が形成されます。
 絶対的な法則・ルールですからね。人間の工夫や探求を超えたものですからね。
人々はただただそれを「なぞる」だけというようになります。
それが「作法」となり、既成の「文化をなぞる」という風習を形成します。


                  



 もちろん、それをもうひとつ洗練させたり、修正したり、
あるいはその上にさらに理論を追加して「屋上屋を重ねる」などというのもします。
けれども、意識の基盤にあるのはできあがったもののコピーです。

 初歩的な、素朴な体験知識をもとにして、自分の知恵でオリジナルなものを造っていくというスタンスはありません。

 その結果、「なぞって」素早くものを習得するという能力は高くなります。
またこういうのが一番評価されたりします。その性格は今も東京大学に代表的に表れています。

 だが、その反面、国民は出発点から知識を形作っていく、という精神活動をしなくなります。
これがその国民の独創性を減殺していきます。

          (続きます)

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Vol.26「非経験な領域の根拠... | トップ | Vol.28「中国は道具主義だ!」 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
もっと自由に、自分で読もう。 (SAITOH)
2005-12-23 23:45:19
場違いながら、仏教のお経について考えていました。

案外、参考になるかとも思いますので、投稿します。



かつては、それこそ山のように多くの種類の仏教経典が、日本にもたらされてきましたが、現代でも生きた信仰を伴っているといえるのは、法華経と浄土三部経とがまず挙げられると思います。 これらに共通しているのは、特定の宗派の教えや教学よりも、まず経典そのものが、それ自体で全国に広く浸透し、唱えられ、書かれ(写経)、信仰されてきたという点です。 それに対して、たとえば華厳経という経典などは、内容的にはすばらしいのですが、中国華厳宗の教学を取り入れることが先に立ってしまうという事情があり、経典そのものを味わうよりも、華厳宗の教えを学ぶために読まれることが多かった。そのため、残念なことに、お経が日本に根をおろしたとはいえません。もっとも華厳の教えは日本文化に影響を与えてはいますけれども。

今では、華厳経を揃って読もうとすると大変苦労するぐらいです。法華経と浄土三部経とは、ともに岩波文庫に納められ、しかも、あの岩波で品切れになることもなく、今日でも着実に版を重ねている! というのにです。



ひるがえって、聖書はどうかといいますと、もちろん、ただの本として日本に伝わったわけがなく、キリスト教の聖典として来たわけです。そうすると、聖書に興味を持ち、真理に近づこうと考える人は、まず、自分勝手に解釈してはいけない、正統なキリスト教の教義を学んで、それに則って解釈しようと考える。ところで、どんな教派の教えにしても、その歴史的、地理的な経緯があるのですから、ひとつの解釈に過ぎないと言えるはずなのですが、まじめで信仰を求める人ほど、絶対的な解釈を求めてしまう。 その挙句、キリスト教や聖書そのものに疑心暗鬼、失望したり、逆に、特定の教義にのめり込み、他を全く認めないような硬直した態度をとるようになったりします。 



もっと自由に聖書を読み、自分で自由に考え、判断するという姿勢を学ばないといけない。そうでないと精神が圧殺されてしまう。



  あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする

  (ヨハネ福音書8:32)

深く知れば知るほど精神が解放されていくのでなければ、なんのための福音なのか全くわかりません。 

様々なキリスト教会や諸団体の動向に左右されることなく、自らの信ずるところに従って、聖句探求を続けて行く人たちが増えてくれば、世の中変わるのではないでしょうか。



幸いなことに、日本のキリスト教人口は約1%しかないそうなので、個人がどのように読み解釈しても、それに対して国家的な圧力がかかったり、世間の風当たりを強く受けたりする羽目にはなりにくいはずです。

考えようによっては、キリスト教が国教である国や、特定の教派が国民の大多数を占める国よりも、恵まれた環境にいるのかもしれませんね。 なんだか元気がでてきました。 
返信する
華厳経と日本 (鹿嶋春平太)
2010-06-02 06:28:00
>聖書に興味を持ち、真理に近づこうと考える人は、
まず、自分勝手に解釈してはいけない、正統なキリスト教の教義を学んで、
それに則って解釈しようと考える。

~久しぶりに過去ログを読みました。
Sabiaトさんのコメントのすばらしさに
改めて圧倒されました。

そうですか、華厳経は日本人にとって
そういう状況にあるのですか。
返信する

コメントを投稿

「考える宗教」へ」カテゴリの最新記事