前回に述べた理屈は、鹿嶋は基本的には哲学者ベルグソンに負っています。
彼は雰囲気実体などという言葉は使っておりませんが、
鹿嶋がこの言葉を使うに付けてのベースは、この天才が提供してくれているのです。
<ベルグソン先生の知性と感性>
彼の認識論の骨子の一つは、知性の認識は明晰であるが、感性のそれにくらべるとその量はきわめて少ない。
感性はというと、その認識は混沌とした総体であって、
明晰ではないがその量は膨大なものである~というところにあります。
そして、これは戦後発展した脳生理学の知識と、とてもよく符合しています。
それはあたかもベルグソン先生は、戦後、実験科学的に明かされていく脳生理学の知識を、
すでに、内省という方法でもって先覚していた~という風に、鹿嶋には感じられるほどです。
先回の話を一層明確化するためにも、いま、脳生理学の知識と照らし合わせてみましょう。
<脳生理学の右脳と左脳>
脳生理学の代表的な成果は、右脳と左脳との認識能力を明かしたことです。
左脳は、言語脳です。これは今日ではもう常識化していまして、、
脳梗塞などで左側の脳がやられると、言葉がしゃべれなくなることでもって明らかになっています。
そしてこれは、前回、知性と述べたものに対応しています。知性というのは、ベルグソンのとらえ方です。
これはイメージ断片を一つ一つ作り出し、言葉にします。
この仕事に左脳の能力は対応しているわけです。
一方、右脳はというと、こちらはベルグソンのいう感性に対応しています。
これは全体を一気に認識する能力を持っています。
全体は多様で整理されていなくて、混沌としていますが、それをそのまま総体として認識します。
<速読術が証するもの>
右脳の驚くべき能力は、速読術によって証明されてきています。
速読術というのは、右脳の感性を開き、それを読書に利用する技術術です。
右脳は映像的に物事を把握する力をもっています。
この右脳を使って、一ページに盛り込まれた情報を一気に総体として認識してしまいます。
それをページをどんどん送って次々に行うのです。
そしてそれをハードディスクに保存するように記憶してしまう、これも右脳の力です。
日本ではこうした速読力が実際に少なからぬ数の人々に実現しているようです。
それが、右脳・感性の驚くべき力の証明になりつつあるのです。
鹿嶋が前回に述べた雰囲気実体を心に生成させる、というのは、この右脳の能力に対応しています。
雰囲気実体は膨大な情報を妊んでいるというのも、これが心に生成することが、
実在そのものを認識することだ、というのも、
右脳にあると明らかになりつつある認識と記憶の能力に対応しています。
<ベニーヒンの癒しの鍵も?>
そして聖書の中で「え?」というところも、この右脳的な認識能力を使うことを思い浮かべると、
納得できそうなところが少なくないように思います。
たとえば、ヨエル書に~
「その後、わたしは、私の霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ」
(ヨエル書、2章28~9節)
~という聖句があります。これはペテロも引用して説教しています(使徒行伝、2章16~8節)
突然の預言内容で、読む者は面食らうところですが、
右脳が突然開かれる(そして霊感が開ける)という具合に考えたら、
そんなに突飛なことでもなさそうに見えてきませんか。
ともあれ、この能力が可能にすることの一つを雰囲気実体という言葉を使っていうと、
「雰囲気実体を心に生成させる」ということですね。
また雰囲気実体は、聖書解読のみならず、聖書に述べられている力を
人間が発揮するための鍵にもなっていそうな予感がします。
ベニーヒンクルセードの映像を見ていますと、
彼が時々自分の胸に向かって「はい、主よ(Yes, Lord!)」といって
癒しなどの不思議を進める場面があります。
彼は何に向かってそういっているのでしょうね。
もしかしたら、自分の内に生成している、イエスないしは聖霊の
雰囲気実体に向かっていっているのでは?・・・・。
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