大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 十

2011年12月16日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 「結構にございます。こう見えても千代は天然理心流を収めております」。
 「馬鹿な、それでも女御は女御だ。第一、千代の身に何かったら、忠兵衛さんも彦五郎さんもお嘆きだ」。
 「なれば兄様、姉様の事を思い出されましたか」。
 「それだがな。俺は美緒に何を事を言ったのか、覚えていないのだ」。
 増してや将軍家の思い人の美緒が、実は己を好いていたなど、思いも寄らぬ歳三だった。
 「では、姉様は如何して自刃なさったのでしょう。兄様が、側にいてくださっていたなら、姉様は、姉様は…」。
 崩れ落ちる寸前、千代の肩をひしと抱き止めた歳三だった。
 「歳三、お前は妹と思っていても、向こうはお前を男として見ていたんじゃないか」。
 思い出せと勇が歳三を問い詰める。
 「そう言われてもなあ」。
 「土方さんは、あちこちで、挨拶代わりに甘い言葉を囁いていますからね」。
 「総司」。
 襖を開けて顔を見せたのは、沖田総司。新撰組一番組の隊長である。勇、歳三とは江戸の試衛館時代からの顔馴染みであった。
 「私が思うに、千代さんも土方さんを好いておいでではないでしょうか」。
 「馬鹿な。千代など小便臭えがきだ」。
 「ほら、それですよ。土方さんはそう思っていても、千代さんは、立派な女御。あの器量なら、男は放っておきませんよ」。
 「総司、正か」。
 「土方さんがお許しくだるなら。私に異存はありませんよ」。
 飄々と良いの蹴る総司。土方は、そういったものかと、改めて千代の未姿を思い浮かべるのだった。
 「だから素人女は面倒なのだ。金子で片が付く女が一番だ」。
 夜半に飛び起きた、歳三の本音であった。
 土方歳三。惚れた腫れたの気持ちの籠った思いが、何より苦手であった。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 九

2011年12月15日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 その晩は、八木家に千代を預け、西本願寺の屯所へと戻った歳三。子細を勇に話すのだった。
 「歳三、本当に美緒と申す女御に、甘い言葉を囁いた覚えはないのか」。
 「当たり前だ。美緒も千代も妹みてえなもんだ。第一、小せえ頃は、俺が風呂にも入れていたくらいだ」。
 「だが、お前が許嫁を得た為に、奥女中になったのだろう」。
 大奥勤めは、一生奉公。男との縁を切るのは持ってこいではないかと勇は説く。
 「歳三、その美緒と申す女御を、好いてはいなかったのか」。
 「近藤さん、言ったじゃねえか。好くも何も妹みてえなもんだって」。
 その頃千代は、明日の夜明けを待って、多摩へ戻るべく、八木源之丞へと一宿一飯の礼を述べていた。
 「待っておくれなはれ。あんたはんに出て行かれたら、土方はんに顔向けでけしまへん」。
 「構いません。兄様は既に人の心をなくしてしまわれております。千代が、再びお会いしとうないと申していたと、お伝えくださりませ」。
 「そないな事言われましても、女御ひとりで江戸までは大層なこっちゃ。まずは土方はんに、話されてからにしておくんなやす」。
 
 「ええい、面倒くせえな」。
 八木家からの早朝の知らせに、三条大橋に走った歳三。千代の姿を探し求め、橋の上をうろうろとすると、旅支度の千代が。
 「おい千代」。
 千代の両の肩に手を当てがう歳三だった。
 「離してください」。
 「何を怒っているのだ」。
 「怒ってなどおりませぬ。ただ、兄様には呆れただけにございまする」。
 取りつく島もないとは、この事である。歳三が何を言おうが、千代は多摩に戻るの一点張り。
 「分かった。多摩に戻るのは止めねえが、今暫く待ってくれれば、俺が江戸に参るので、その折りに、千代を送り届けよう」。
 女御ひとりで中山道の旅など、到底適うものではない。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 八

2011年12月14日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 「おい待て、俺の祝言と美緒が大奥へ奉公に出たのとどう繋がるのだ」。
 ああと、目を伏せる千代。やはり忘れていたのかと、歳三の不実さを責めるのだった。
 「兄様は、姉様を嫁にすると申されたではありませぬか」。
 「俺がか」。
 全く思い当たらない歳三。それは何時の事だと尋ねるのであった。
 「そのような大事をお忘れとは、千代は兄様を見損なっておりました」。
 「おい千代、何時の事か話せ」。
 「思い出されるまで、お考えくださいませ」。
 ぴしゃりと歳三を撥ね除ける千代。歳三の女御遊びまで詰り出す。
 「琴様は、ずっと兄様のお帰りをお待ちであられますのに、島原だ祇園だと、女御と遊んでおられますとは」。
 「琴が俺を待っているのか」。
 「当たり前にございます。許嫁なのですから」。
 「おい、誤解をするな。琴にははっきりと別れを申したぞ」。
 京へと上る際に、天下に命を捧げる覚悟。もはや嫁を迎える事は適わないと話を付けたと歳三。
 「ですから兄様は、女御の気持ちが分からぬのです。そのような言葉だけで、女御は納得は出来ませぬ」。
 言い交わした女御の事も顧みず、京で新たに女遊びをするなど、風上にも置けぬ下郎だと。
 「黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって。おい千代、俺の何処が不実なんだ」。
 美緒と誓い合った覚えはない。琴には別れを告げている。京で相手にしているのは銭で片の付く、商売女。しかもほかの隊士のように、妾にと請け出してもいない。
 何時死ぬかも知れぬ身でありながら、ひとりの女御を定められぬと歳三は言う。
 「兄様のお気持ち、良う分かりました。千代が間違うておりました。明日の朝にでも多摩へ戻ります」。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 七

2011年12月13日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 「美緒が自害したと」。
 「はい」。
 「何があった」。
 千代の目が勇と登をちらりと見る。
 「分かった。どっちみち、千代の宿を探さなくちゃならねえんだ。送りがてら聞こう」。
 「宿って兄様。千代は、ここには泊まれぬのですか」。
 「あたりめえだ。ここは男所帯だぞ」。
 着いて来いと、歳三は立ち上がる。その素っ気なさに幾分気落ちする千代であったが、それでも、勇と登に礼を言うと、静かに従うのだった。
 「さあ、聞かせて貰おう。美緒は如何して自害したのだ」。
 歳三が向かった先は、壬生村の八木源之丞の屋敷。つい二年前まで屯所として借り受けていた名主の元であった。
 女御ひとりで宿を取るのは、心許ないので是非とも面倒を見て欲しいと、歳三が頼み込んだのである。
 「姉様は、将軍様の御側室にございました」。
 「側室だと。家茂公か」。
 美緒は奥奉公に入り、直ぐに家茂の目に止まり側室となったが、折しも和宮との公武合体が決まると、宮家の心情を害す事を恐れた幕閣によって、扇ガ谷の尼寺へ入れられた事。
 そこで男児を産み落としたが、不幸にも子は数日で夭逝した事。その後、気鬱に陥った美緒は自刃して果てたと、千代は一気に話す。
 「くそっ、家茂。一発ぶん殴ってやるんだった」。
 何も知らずに、美緒を死に追いやった相手の警護をしていたのかと、唇を噛む歳三の頭を拳で殴った千代であった。
 「痛えっ。何しやがる」。
 「家茂様を殴るなど、恐れ多い。それに、殴られなければならないのは、兄様にございます」。
 「馬鹿言うな、どうして俺が殴られなくちゃならねえんだ」。
 歳三は心外だと、千代を睨む。こちらも負けじと睨み返した千代。ひと度大きく息を吸うと、一気に捲し立てるのだった。
 「兄様は、三味線屋の琴様と、祝言のお約束をなされました。その事で姉様は、大奥へと上がったのでございます」。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 六

2011年12月12日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 「中島、何だその連れは」。
 新入隊士が、四方や女御連れであるとは、思いも寄らぬ近藤勇であった。幾ら天然理心流の同門であり、旧知の間柄であっても、隊の局中法度は知っているなと、大きな口をへの字に曲げる。
 「いえ、そのような者ではありません。こちらは、土方副長の縁者の方です」。
 「歳三の縁者。それにしても女御を連れて京に上るとは、歳三が黙っていないぞ」。
 「いいえ、近藤様。千代が勝手に中島様に付いて参りました。どうぞ、中島様をお叱りにならないでくださませ」。
 千代の実家平家は、歳三の曾祖母の実家である事から、縁戚関係にあり、歳三の姉のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎との縁もここから始まっていた。
 「それで近藤様。兄様、いえ土方歳三は何処におります」。
 勇は厳つい顔を歪ませると、同時に目も泳ぐのだった。
 「それは、直ぐに迎えを出そう」。
 瞬時に察した千代。
 「いえ、私が参ります」。
 「それは、ならぬ。大事ない。直ぐに連れ戻す」。
 
 「何、千代が江戸から参ったと申すのか」。
 島原で花君大夫の膝に乗せた頭を、むくりと起こした歳三。迎えの沖田総司にまで八つ当たり。
 「如何して千代が。あやつは江戸城に奉公に行っている筈じゃないのか」。
 「私に怒らないでくださいよ。私は近藤さんの言い付けで、土方さんを迎えに来ただけですから」。
 「くそっ、あのじゃじゃ馬が」。
 だったら歳三と似てると、余計な言葉を洩らし、ぽかりと頭に拳を見舞われるのだった。
 急ぎ島原から、屯所の置かれた西本願寺へと戻った歳三。息を整える間も置かず、勇の部屋へと傾れ込む。
 「近藤さん、申し訳ない。千代が来ているってのは真か」。
 「兄様。お久しゅうございます」。
 未だ襖から顔を覗かせて、立った侭の歳三に、指を着いて挨拶をする千代。一礼の後、その顔を上げると、これが京の女御の匂いかと、花君大夫の移り香を皮肉を込めて指摘するのだった。
 「全く、大奥という所は女御をこうも嫌味ったらしくするもんか」。
 殊勝な文とは、打って変わった千代に、舌打ちをする歳三。その侭、勇の横に胡座をかくのだった。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 五

2011年12月11日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 「本当に困るのです。私が叱られます」。
 八王子宿から甲州街道を進み、中山道と交わる諏訪宿である。ここからは中山道を京へと向かうので、引き返すようにと、登が懸命に千代を説得するが、聞く耳を持たない千代であった。
 「ならば、それぞれに京に参った事にすれば、良いではありませんか」。
 京の三条大橋で別れ、そこからは各々に向かう。何なら、二、三日京で遊んでから来るようにと、登に告げる。
 「私は、仕事ですよ。遊んでからなどといった暇はありません」。
 「そうですか。京には島原やら祇園やら、殿方には楽しめる所が多いそうにございますよ。兄様がそう文を寄越したそうにございます」。
 やれやれといった顔の登。どうしてそこまで京に上りたいのかと聞くのだった。
 すると、ふっと顔を暗くした千代。目を伏せながら、美緒を知っているかと。
 「確か、千代さんの姉様だ。奥奉公に出られていると聞いていますが。お変わりありませんか」。
 美しい人だと登。同じ姉妹でもこうも違うものかと、軽口を滑らせた瞬時だった。
 「御自害なされたのです」。
 直ぐには、千代が何を言ったのか分からない登。もう一度聞き返し、漸く理解する。
 「何故です。御自害なされる事などあったのですか」。
 その問いには答えず、千代は和紙に包まれた、ひと握りの遺髪を胸から出す。
 「姉様は、兄様を好いておいででした。ですから、この遺髪を兄様にお届けしたいのです」。
 それが美緒への供養になるのだと千代。
 「ならば、多摩にお戻りになられた折り、いや私が預かりましょう」。
 「それは出来ません。兄様の本心をお確かめした上で、お渡しするや否やを決めとうございます」。
 登の、ふーんといった表情が、千代の本値を挿し抜いているようで、少しばかり胸がちくりとする千代であった。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 四

2011年12月10日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 「では中島様は、これより京に上られるのでございますか」。
 千代は、山本道場の同門である中島登が、上京すると聞き付け、尋ねていた。
 山本道場とは、武州下原刀の刀匠でもあり、武術家の山本満次郎が開いた、天然理心流の道場であると同時に、剣術、棍法は愚か、所作法も教えていた事から、千代のように女御も多数名を連ねていた事が特徴的である。
 「ならば、是非、千代もお供をさせてくださいませ」。
 困惑の表情を浮かべる登。
 「ですが今の京は、物見遊山に出掛けられるような所ではありません」。
 「物見遊山などではございませぬ。千代は、兄様の身を案じておるのです」。
 物見遊山と言われたことが、即ち女子どもと馬鹿にされたようで、面白くない千代。思わず頬を膨らませ、河豚のようだとからかわれ、更に河豚は膨らむのだった。
 「では、中島様勝負致しましょう」。
 剣術勝負で、己が勝ったなら連れて行けと千代。すると登は鼻で笑う。
 「幾ら千代さんが天然理心流を学んだとはいえ、女御に、負ける訳ありませんよ」。
 「なれば勝負」。
 天然理心流の太い木刀を手に構える千代に、登は一瞥を送ると、するりと背を向けるのだった。
 「敵に背を見せるのか」。
 息巻く千代は止まらない。
 「ならば、背からでも打ち勝ってみよ」。
 「ご免」。
 上段から、振り下ろした木刀は、振り向き様の登の左掌に包まれ、そのまま振り回された千代の体は大きく揺らぎ、叩き落とされる。
 「これは千代さん。大丈夫ですか。些か本気を出し申し訳ない」。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 三

2011年12月09日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 彦五郎の住まいは、大名が参勤交代の折りに宿泊する陣屋である。豪奢な屋敷は二棟。広々とした庭先には、剣術道場も設けられていた。
 そもそも、ここ武州一帯は、八王子千人同心と呼ばれる、郷士身分の幕臣集団に与えられた天領。彼らの任務は甲州口の警備と治安維持にあった為に、百姓仕事の傍ら剣術の腕を磨くのも、常であった。
 その指導に訪れていたのが、江戸は市谷甲良屋敷に道場を構える、試衛館。天然理心流宗家四代目の近藤勇であった。
 「そうですか。美緒さんが」。
 彦五郎は勇不在の試衛館を、幕臣・寺尾安次郎と共に預かっている為、不在であると、妻ののぶが千代を迎えてくれた。
 「於のぶ様にも、幾度も文を頂き、感謝していおります」。
 「なあに、千代さんは妹みたいな者」。
 美緒は残念ではあるが、千代がこうして無事に戻った事は何よりと、のぶは千代を勇気付ける。
 「こんな御時世。徳川様がお倒れになるなど、あろう筈もありませんが、京では戦が起きているらしいではありませんか。早う、お城を離れて良かったのですよ」。
 勤めは果たしたのだ。恥じ入る事はないと。
 「その京ですが、兄様は如何しておられます」。
 「それが、豆にあちこちに文は書いているようなのですが」。
 花魁や芸者衆との女御遊びの事や、血の付いた鉢金を送ってきたりと、のぶは眉を潜めるのだった。
 「なればお元気にございますな」。
 「いいえ、何時だったか、不貞浪士の探索に向かう時など、乍然今ニも君命有之候ハゝ、速ニ戦死も可仕候間、左様思召被下、直ぐにでも戦死する可能性もあるだろうからそう思っていて欲しいといった内容である。
 これには、千代も胸がどきりとする。
 「では兄様は、大層危ないお役目にお就きなのですか」。
 「危ないも何も、江戸では人斬り集団と、恐れられてるくらいです」。
 「人斬り集団ですか」。
 にっこりと微笑んだ、兄様の顔を思い浮かべた千代。あの優しかった兄様が、人斬りと呼ばれているなど信じられない事である反面、幼い頃より村ではばらがきと呼ばれる程の棘のある気質だった事も思い起こすのだった。
 「於のぶ様、千代は兄様の御様子を見て参ります」。
 「見て参るって、正か京に上るつもりではないでしょうね」。
 目を大きく見開いたのぶ。京は剣呑な事になっていれば、決して行ってはならないと、声を大きくする。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 二

2011年12月08日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 この文を読まれているのは、父にございましょうや。母にございましょうや。もしや千代やも知れませぬな。
 ただただ、我が身に起きた事を絵空事にしとうございまする。
 皆様方、私の事はどうかお忘れくだされませ。それが最期の望みにございまする。美緒は奥奉公へ上がりました折りに、既にみまかったものとお思いくだされませ。
 千代、そなたは女御にしておくには、惜しいくらいに気丈にあれば、己を顧みずに姉の身を案じるであろう。じゃが、姉は姉の定めを全うしたのじゃ。千代、己の道を歩まれよ。誰も恨むでない、良いな。 美緒                

 千代は、文を握る手の震えを、止める事が出来ずにいた。
 「では姉様は」。
 「梅泉院はみまかったのじゃ」。
 そしてひと掴みの髪の束をそっと差し出す。
 「これが、姉の思いにございまするか」。
 千代は、その髪の束を胸に抱き締め、はらはらと涙を流すのだった。

 「庵主様、千代は帰りましたか」。
 「梅泉院、これで良かったのであろうか」。
 「私は、将軍の側室にございますれば、元より将軍様亡き後は出家し、桜田屋敷から出る事は適いませぬ。故郷へ戻る事は適わないのでございまする」。
 ならばいっそ、皆の思い出から忘れ去られたいと願っての事であったが、それを知る由もない千代。姉の遺髪を胸に、一路故郷の武州多摩は高幡不動近く上田村へと向かうのだった。
 「姉様にございます」。
 千代は、父の平忠兵衛、母のきぬの前に、美緒の遺髪を差し出し、江戸城奥での美緒の事を子細に話すのだった。
 「そうか。だがひと時でも、天下人に思われたなら、美緒も女御としての誉れであろう」。
 「父様。真にそう思われますか」。
 千代は、忠兵衛の言葉に憤るのだった。
 「千代、お控えなされ。父様もそう思わなくてはいられないだけです」。
 親子三人、肩を落とすのだった。
 「それで千代、これからどうする」。
 「はい。まずは佐藤のおじ様に、大奥からお暇を頂いた御報告を致して参ります」。
 佐藤のおじ様とは、千代とは遠縁である、日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主の佐藤彦五郎の事である。



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百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~ 第二部 一

2011年12月07日 | 百花繚乱 仇桜 ~時の流れの中で~
 慶応三年如月。寒い寒い朝、尼寺である神奈川の扇ガ谷は英勝寺門前には、ひとりの女御の姿が合った。
 つい先の月まで、江戸城の奥女中だった千代である。この門を潜りさえすれば、探し求めていた姉の美緒に会える。それを信じて疑う事はなかったのである。
 「庵主様。こちらに美緒と申す女御がおられると聞いて参りました」。
 「はて、美緒にございまするか」。
 老齢の庵主は、千代を見据えながらも素知らぬ風である。
 「美緒でなければ、てふにございます」。
 「てふとな。そなた、お探しの女人とは」。
 「姉にございまする」。
 庵主は、ふうと溜め息を付く。
 「美緒と申す者も、てふと申す者も、もはやこの世にはおらぬのじゃ」。
 「何を申されます。勝様と瀧山様がこちらにおるとおっしゃったのでございます」。
 勝と瀧山の名を耳にし、眉をぴくりと動かした庵主であった。
 「左様か。じゃが、そなたの探されておる者はおらぬのじゃ。それが、梅泉院の願いなのじゃ」。
 「梅泉院、それが姉様の名なのですか」。
 美緒こと梅泉院は、男児を産み落としたが、その子は僅か数日で夭逝。その後、俗世との縁を切り静かに暮らしていると庵主は告げる。
 「姉様は私に、妹の千代にも会いたくないと申されておられるのですか」。
 静かに頭を横に振った庵主。
 「もはや梅泉院の時の流れは、止まっておるのじゃ」。
 悲しみが重なり、心が耐え切れなくなった梅泉院の、時は止まり、自刃して果てたと。
 そして庵主は一通の文を、千代の前に差し出すのだった。



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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 六十 第一部完

2011年12月06日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 兄様。年が明けましてございまする。小島の叔父様が、兄様に刀を強請られたと笑おておいでと、のぶ様からの文で知りましてございます。
 のぶ様も、大層兄様の御身を案じておられまする。
 師走の頃、瀧山様は大奥を御去りになられてございます。
 その前の日にございました。瀧山様のお局に呼ばれ、姉様の行方を教えて頂きましてございます。
 やはり、公武合体の犠牲になったのでございます。家茂様に降嫁される静寛院宮様へのお気遣いにございました。
 瀧山様は姉様にも、千代にも頭を下げ、お謝りくだされましてございまする。
 ただ、姉様の行方も分かりました今、千代もお勤めを
辞退致しましてございまする。
 姉様もお連れし、多摩へ戻る所存にございまする。ですから兄様。兄様も早く、お戻りくださいませな。
 京へは勤王の志士たちが大勢集まっておられると聞き及びまする。
 お別れのご挨拶をと勝様の元赤坂のお屋敷に伺いました折り、何やら、土佐の脱藩浪士のお方がおられました。大層面白いお方で、坂本龍馬様とおっしゃられました。京にも大分滞在なさっておいでとのお話でしたが、兄様とはご面識はないようにございました。
 京も広いのでしょう。
 千代はこれから、姉様がおられます神奈川の扇ガ谷は英勝寺へと参りまする。
 これより先は、兄様へ真に文を書く事が出来ます故、兄様と身近になれるような気がしておりまする。
 兄様。戦とは何なのでしょう。どうして同じ日の本の人同士が殺し合わなくてはならないのでしょう。戦を好まなかった家茂様が、総大将にならねばならなかったのですか。
 兄様。これより先、徳川様は大変な渦に巻き込まれて行くのでしょう。千代も天璋院様、静寛院宮様を裏切ったようでもあり、心苦しゅうございまするが、千代の望む道は、家族が誰ひとりとして、この戦に巻き込まれる事のない平穏にございまする。
 兄様。どうかお聞き届け頂けぬものにございましょうか。


 第二部 告知
 慶応三年、幕府の大政奉還、坂本龍馬暗殺、王政復古の大号令。そして慶応四年の鳥羽伏見の戦いから、江戸城無血開城。戊辰戦争へと突入。
 この時、天璋院様、静寛院宮は…。怒濤の幕末を千代はどう迎えるのか。兄様はとは誰なのか。舞台は、神奈川へと移ります。


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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 五十九

2011年12月05日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 兄様。瀧山様の御様子が忙しなく、毎日中奥へと出向いておられましたが、ついに、千代が恐れていた事が起こりましてございます。
 瀧山様は、御役目を御辞退致しましてございまする。お部屋の局の染嶋様、仲野様を伴われ、御実家の川口へと戻られるそうにございます。
 十四代様が御逝去なされた事が理由にございまするが、やはり慶喜様にはお仕えしたくない御様子。
 これにて、大奥総取締の御役には、初瀬が就かれるのではと、皆は噂しております。
 初瀬様は天璋院様の御付きの御年寄にございますれば、この動乱の時には適任かと思われまする。
 千代の方は、瀧山様がお城を去られる前に、どうしても姉様の行方をお伺いしなければなりませぬ。
 御役目の引き継ぎでお急がしいようにございまするが、それでも伺うつもりでおりまする。


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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 五十八

2011年12月04日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 兄様。勝様に、おてふの方様の事を伺いましてございまする。
 勝様は、大きく目を見開かれ、大層に驚かれておりましたが、それよりも更に驚く事をお伝え致しました。
 千代が、おてふの方様と思われる美緒の妹だと。
 暫しの間、勝様は御思案なさっておられましたが、今は仕来りがどうのといった世の中ではないと申され、また、千代の瞳が兄様に良く似ておられる故、嘘をも見抜くであろうと、お話くだされました。
 おてふの方様は、やはり家茂様の御内儀にございました。御目見え以下の御広座敷のお勤めなれど、家茂様がお庭をお散歩の折りに、お目に止まったようにございまする。
 瀧山様様が、御側室なれば、御中臈様からお選びになされませと再三申し上げましたようにございまするが、家茂様はお聞き入れになられず、姉様を召されたそうにございます。
 表のお役人の勝様が、このような込み入りましたお話をお知りなのは、姉様が身籠りましたからにございます。
 ですが、折しも公武合体で和宮様御降下が決まり、既に子を身籠った側室がいるなど、天子様に申し上げる事も出来ずに、姉様は城を出されたそうにございます。
 姉様の居場所は、勝様にもお分かりになられぬ御様子なれど、兄様、姉様は生きておいでにございます。千代は心底安堵致しました。
 全て、御老中水野忠精様、瀧山様に任されたようにございますれば、早々に瀧山様に伺ってみる所存にございまする。
 兄様、御案じ召されるな。勝様が御承諾にありますれば、千代の身が剣呑な事にはなりますまい。



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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 五十七

2011年12月03日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 兄様。ついに慶応二年の師走五日に、一橋慶喜様が、二条城にて十五代将軍様の宣下をお受けになったそうにございます。
 これにて、大奥は一層ざわついてございます。
 九日には宮様が、御出家なされ、静寛院様とお名をお改めにございます。
 これにて、大奥には、十三代家定様の御正室天璋院様、御生母本寿院様。十四代家茂様の御正室静寛院様、御生母実成院様と、高貴な方々皆様が御出家あそばされ、大奥は火の消えたような寂しさにござます。
 慶喜様は京に非せられます故、御正室の省子様も大奥には入られない御様子にございまする。
 省子様は、天下人となられました慶喜様御正室に非せられ、大奥での御権勢も欲する侭かと思いまするが、先々代、先代様の御正室様、御生母様がおられます大奥に入られますよりも、お心安らかにございましょう。
 慶喜は、関白一条忠香の照姫様と御婚約をなさっておいでにございましたが、御婚儀直前になられ、照姫様疱瘡に罹患され御変貌なされましたが故に、代わりにお輿入れなされました美賀子様にございます。
 忠香様の御養女となられ、省子様とお名を変えられてございます。
 慶喜様との間には五人のお子をなされたそうにございますが、皆様御夭折なされました由。
 身に詰まされまする。
 この度の騒動を一刻も早く収められた慶喜様が、江戸にお戻りになられ、以前のような華やかな催しで台所様をお迎えしとうございます。



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百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~ 五十六

2011年12月02日 | 百花繚乱 夢の後 ~奥女中の日記~
 兄様。千代が何故勝様と御対面相なりましたのかは、兄様のせいにございまする。
 また、兄様のお怒りのお顔が目に浮かびまする。兄様は昔から、良くお怒りになられましたが、勘気は命取りにございますよ。
 兄様はご存じにございますか。多摩の田舎では兄様は裏で、ばらがきと呼ばれておりました。
 あの棘の多いばらにございまする。美しいが棘がある。余りに兄様を言い当てているので、千代も幼いながらに、笑ってしまった覚えがありまする。
 勝様は、兄様がお元気な事をお知らせくださりましたが、千代が知らぬ間に、京では随分危ない事なさっておいでにございますれば、千代は胸を潰してございまする。
 そして、兄様が会津様に、千代が大奥勤めをしているとお話になられましたのでしょう。その事を松平容保様が案じ、勝様に申され、千代の昨今を兄様にお知らせする為にございました。
 兄様がお忙しい中、千代の事を気に掛けてくだすっていた事が嬉しゅうて、勝様の前で涙を零しそうになりました。
 ですが、兄様は泣き虫の女子は嫌いにございますれば、耐えましてございます。
 兄様、勝様が御立派なお方に非せられます。徳川様に無くてはならないお方かと。ですが、兄様。
 僭越ながら御意見させて頂きますれば、勝様は決して兄様たちを良くは思っておりませぬ。
 お心をお許し召されませぬよう、お願い申し上げまする。



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