日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

桶狭間の戦い(7)瀬名陣所跡

2014-02-19 | 今川義元

瀬名陣所跡は、名古屋市緑区桶狭間(旧有松町大字桶狭間字寺前)にある史跡です。

永禄3年5月17日、今川義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が、先発隊として着陣したところで、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と大将今川義元が19日昼食する時の本陣を設営しました。

当時は、トチ木林でしたが、その後竹林になり、里人は瀬名氏俊を偲び、「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいました。

昭和61年(1986)池の堤防工事によりセナ薮も取り壊され、今は竹を僅かに残されています。







大池の堤防工事が行われる以前はすぐ脇を鞍流瀬川が流れており、ホタルやハグロトンボの姿がよく見られたといい、住民はそれを桶狭間の戦いの戦死者の魂魄だとして、捕獲することをはばかっていたといいます。

(Wikipedia、桶狭間古戦場保存会HP参照)

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6 コメント

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桶狭間の戦い(7)瀬名陣所跡 (willytsuguoshikata)
2014-02-21 06:16:24
桶狭間の戦い(7)瀬名陣所跡 碑!
こんなところにも確りした碑が有るのですね!
返信する
四方さんへ (しずか)
2014-02-21 10:40:18
見つけにくいところにありますが、戦のことを語り継ぐためにも、このような碑をこれからも保存していってほしいですね。
返信する
教えてください (住兵衛)
2014-02-26 21:40:28
源平時代については疑問に感じていることが
いくつかあって、それについては源平ファンの
しずかさんにお尋ねしようと思い立ちました。
どうぞよろしく。

(源平疑問-その1)
母・常盤御前は敵の清盛もクラッとするほどの「美女」
だったとされていますが、その血を受け継いでいる
はずの子・義経の肖像は美男子というより、むしろ
「ひょうきん顔」(中尊寺の画)に近い印象です。
なんでこんな「落差」が生じているのでしょうか?
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住兵衛さんへ (しずか)
2014-02-28 10:51:08
コメントに気付かず、返信遅くなりすみません!

牛若丸の絵本にあるのは、色白の美少年ですが、中尊寺の肖像画はたしかに美男子とは程遠いような
(@_@;)

平家側から描くと不細工、源氏側から描けばイケメンということもあるような気がします。

いぜれにせよ後世に描かれたものが、義経さまを描写しているとは思えませんね。想像ではないでしょうか。
それに常盤御前は美しくても、父の義朝の血が入りますし・・・(^_^;)

しか~し、義経好きのわたしとしては、タッキーのようなイケメンだったと勝手に思い込んでいます(#^.^#)
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ありがとう (住兵衛)
2014-03-01 15:45:15
>しずかさんへ

冷静な分析をありがとうございました。
確かに、父・義朝の「ひょうきん二乗」顔が
母・常盤御前の「とてつもない美貌」を思う存分
破壊してしまった、ってことも考えられますね。
もしそうなら、お気の毒なことですが、義経サンは
生まれた瞬間からすでに薄幸の人だった?
返信する
住兵衛さんへ (しずか)
2014-03-02 12:58:13
訪問ありがとうございます!

>義経サンは
生まれた瞬間からすでに薄幸の人だった?

そういう運命を背負って生まれてきたようの思えてなりません。だからこそ判官びいきになってしまうのですが(^_^;)

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