瀬名陣所跡は、名古屋市緑区桶狭間(旧有松町大字桶狭間字寺前)にある史跡です。
永禄3年5月17日、今川義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が、先発隊として着陣したところで、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と大将今川義元が19日昼食する時の本陣を設営しました。
当時は、トチ木林でしたが、その後竹林になり、里人は瀬名氏俊を偲び、「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいました。
昭和61年(1986)池の堤防工事によりセナ薮も取り壊され、今は竹を僅かに残されています。
大池の堤防工事が行われる以前はすぐ脇を鞍流瀬川が流れており、ホタルやハグロトンボの姿がよく見られたといい、住民はそれを桶狭間の戦いの戦死者の魂魄だとして、捕獲することをはばかっていたといいます。
(Wikipedia、桶狭間古戦場保存会HP参照)
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こんなところにも確りした碑が有るのですね!
いくつかあって、それについては源平ファンの
しずかさんにお尋ねしようと思い立ちました。
どうぞよろしく。
(源平疑問-その1)
母・常盤御前は敵の清盛もクラッとするほどの「美女」
だったとされていますが、その血を受け継いでいる
はずの子・義経の肖像は美男子というより、むしろ
「ひょうきん顔」(中尊寺の画)に近い印象です。
なんでこんな「落差」が生じているのでしょうか?
牛若丸の絵本にあるのは、色白の美少年ですが、中尊寺の肖像画はたしかに美男子とは程遠いような
(@_@;)
平家側から描くと不細工、源氏側から描けばイケメンということもあるような気がします。
いぜれにせよ後世に描かれたものが、義経さまを描写しているとは思えませんね。想像ではないでしょうか。
それに常盤御前は美しくても、父の義朝の血が入りますし・・・(^_^;)
しか~し、義経好きのわたしとしては、タッキーのようなイケメンだったと勝手に思い込んでいます(#^.^#)
冷静な分析をありがとうございました。
確かに、父・義朝の「ひょうきん二乗」顔が
母・常盤御前の「とてつもない美貌」を思う存分
破壊してしまった、ってことも考えられますね。
もしそうなら、お気の毒なことですが、義経サンは
生まれた瞬間からすでに薄幸の人だった?
>義経サンは
生まれた瞬間からすでに薄幸の人だった?
そういう運命を背負って生まれてきたようの思えてなりません。だからこそ判官びいきになってしまうのですが(^_^;)