彦根城跡から夢京橋キャッスルロードに出ると、通りの真ん中に浄土宗の宗安寺があります。
井伊直政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺を前身とします。
井伊直政が高崎城主となると安国寺は移転。1601年佐和山入城に伴い、佐和山城下へ移され、宗安寺と改名。
1603年、彦根城築城の際、現在の地へ移転されました。
赤門は、石田三成の佐和山城の表門を移築したものと伝えられています。
現在の本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。
また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏とされる仏像を持ち帰ったもので、胎内納経の奥書から文永7年(1270年)の作といわれています。
書院には、石田三成の念持仏の千体仏と石田地蔵尊が安置されています。
また、当寺は、朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であったことでも知られています。
総本山を京都の知恩院、直接の本山を京都百萬遍知恩寺とする浄土宗の寺院で、徳川家が浄土宗であったことから、江戸時代は彦根藩における徳川家康公位牌奉安所とされました。
墓所には大坂夏の陣で、井伊直孝勢に討ち取られた豊臣家の家臣・木村重成の首塚があります。
木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。一説には木村重茲(しげこれ)の子とも言われている。母、宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。
重成は秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買っている。慶長20年(1615年)1月7日、大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎える。同年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し、昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。また、婚姻して5ヶ月の青柳と別れの盃を交わした。
この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴し、戦闘に入った。重成は家臣達の諌めも聞かず、敵陣へと突撃を開始。しかし井伊軍と激戦の末、戦死する。享年23[要出典]。徳川家家臣の安藤重勝が井伊家家臣より首を譲り受け、家康の首実検に供している。その首級が家康に届けられると頭髪に香が焚きこめてあったのでその覚悟を感嘆させたという逸話がのこっている。(Wikipediaより抜粋)
白砂を敷き詰めた庭園
街中にあるお寺ですので、食事や買い物がてらに拝観できます。