伏見の玄忠寺の境内には、元和4年正月の伏見騒動の小林勘次の墓と顕彰碑があります。
江戸の初期に、淀川船の通行料が値上げされた時、伏見町民の困窮を見かねて薪炭商の小林勘次が幕府に直訴し値下げが命じられましたが、命を記した朱印状を江戸から伏見に持ち帰る途中、元和4(1618)年4月26日、東海道鞠子宿で勘次は急死。
勘次はその死を予期し,朱印状を魚の腹に入れて別人に伏見へ持ち帰らせました。このことにより通行料は旧に復しました。
勘次の死が、暗殺であることも疑い、伏見の町民は勘次を義民として顕彰しました。