平安宮内裏内郭回廊跡よりさらに東に進むと、平安宮内裏承明門跡の石碑があります。
承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。
平安宮 内裏 承明門(じょうめいもん)跡
この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80㎝の東西方向の新旧遺構が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あめおちみぞ 雨水の排水溝)と判明した。
この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたこともあきらかになった。また、この雨落遺跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め遺構が検出され、このうち1基は、11世紀中頃の輪宝(りんぽう)に橛(けつ)が打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス玉、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法(あんちんほう)による儀式で執り行われたを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷都の時のものと考えられている。
これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や関係書物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落遺構も地中の元位置で保存されている。 (案内板より)
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承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。
平安宮 内裏 承明門(じょうめいもん)跡
この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80㎝の東西方向の新旧遺構が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あめおちみぞ 雨水の排水溝)と判明した。
この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたこともあきらかになった。また、この雨落遺跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め遺構が検出され、このうち1基は、11世紀中頃の輪宝(りんぽう)に橛(けつ)が打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス玉、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法(あんちんほう)による儀式で執り行われたを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷都の時のものと考えられている。
これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や関係書物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落遺構も地中の元位置で保存されている。 (案内板より)
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