わしやま

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水中ヨガ

2010-11-01 01:00:00 | わしやま音楽祭Vol.12
お届けするのは

服部克久「ザ・ベストテンのテーマ」

1978年から11年間放送され、日本の音楽界を左右、情報源、また生放送中のハプニングが見ものだった音楽番組「ザ・ベストテン」、オーケストラに始まるイントロで、今週のチャートはどうなっているかワクワクドキドキした人もあると思いますが・・・

司会は久米宏と黒柳徹子。

その後久米さんが抜け、

黒柳さんと

久米さんの後は、TBSアナウンサー(松下賢次、生島ヒロシ、松宮一彦)、おすぎとピーコ、寺尾聰、渡辺徹、桂文珍、タモリ、所ジョージ、小沢昭一という助っ人、2代目小西博之、3代目松下賢次、4代目渡辺正行の司会で行った。

その中で数々の放送事故をまとめると、

1978年、世良公則&ツイストが「銃爪」の9週連続1位の際、「もう楽屋に誰もいないから」と、発表・コールされる前にスタジオに出てきてしまった。この時彼らは世良を乗せた神輿を担ぎ、「銃爪大明神」と大書した幟を押し立てての登場であった。

1978年11月16日、松山千春が『季節の中で』で初出演した際に旭川市民文化会館からの生中継を行ったが、当初3分間の予定だったスピーチが長引き8分間に及んだため、その後に出演した山口百恵が歌う時間がなくなってしまい、記念撮影だけ参加した。ほかの出演歌手はこの措置に対し不快感を示したが、当時のプロデューサーである弟子丸千一郎が、テレビ出演もせず地道な活動でここまできた松山と、テレビの力で人気になった他の歌手との努力の差を示した上で、松山に対する特別措置に理解を示すよう訴え、事態を収めたという。

1980年、長渕剛が中継先で「順子」の歌唱中に、そばにいた歌手仲間たち(桑名正博、アン・ルイスら)に「あのー、済みませんが失恋の歌なので手拍子はやめてくださいませんか?」と言って演奏を最初からやり直した。

1980年6月12日、スタジオの出演歌手に地方各地の視聴者が中継先から質問を受け付けるコーナーで、シャネルズ(後のラッツ&スター)に対して、ある青年が「黒人のクセに何でシャネルズ(フランスの高級ブランド名)なんだ」と質問をした。鈴木雅之はとまどいつつも、「ブランド名が元になったのではない」と答えたが、その後黒柳が質問をした青年に対し「人種差別となる発言となるので、こういった表現をすることはやめてほしい」と注意喚起した。またラッツ&スターになり、初の1位を獲得したあまりにその感激で、登場時に勢いよく飛び出そうとしてミラーゲートの回転ドアの中心部を強く押しすぎてドアが外れて前に飛んだこともあった。久米曰く「ちゃんと弁償していただいた」そうである。

1983年1月13日、中森明菜がこの日「セカンド・ラブ」が5週連続で1位にランクイン。作曲者の来生たかおより祝福の電話が入り、来生から「今日は風邪で喉を痛めていると聞きましたが?」と心配されるも、中森は「大丈夫です」とコメント。しかし「セカンド・ラブ」の歌唱中、やはり風邪の影響からか急に声が出にくくなり、歌唱終了後に中森は大粒の涙を流してしまう(当初スタッフは口パクでの歌唱を勧めたが、中森本人が「TVを見ている人に対して失礼だから」と拒否したとの事)。エンディングでの中森は、電話相手の来生や同番組の出演者らに気丈に笑顔を見せようとしながらも、悔し涙は止まらないままだった。番組終了後に黒柳は、中森に対して「良いお医者さんがいるの。(松田)聖子ちゃんにも教えているから、是非聞いてみて」と気遣ったという。

1983年のある放送で、スタッフの手違いで本来はスタジオの最上部に吊るされるはずの1位のくす玉が誤ってスタジオの下部に落ちてしまった。この時の1位歌手・中森明菜はくす玉を割るためにわざわざ顔を突っ込んだらしく、この年の年末豪華版でゲストコメンテーターをしていたビートたけしは「女便所をのぞいてるんじゃないんだから…」とコメントした。

1983年、「夏色のナンシー」でランクインした早見優は自分の順位まで時間が在る為、楽屋で先輩の松田聖子と談笑中に2組の歌手が欠席した為,早くに自分の出番に。慌てて回転ドアを飛び出して来るも口紅は塗れておらず靴も先にランクインしていた堀ちえみに履かせて貰う。その日は動揺で声も数回、ひっくり返っての歌唱になる。

【放送事故?】1983年9月8日、アルフィーが南紀白浜ワールドサファリより生中継(曲は メリーアン)。しかし国内であるにもかかわらず衛星中継を行ったため、バックのカラオケと歌がずれた状態でオンエアされた。なおその際、オリの中で歌っていた。

1984年、杏里が「悲しみがとまらない」の歌唱中、側に座っていたチンパンジーが杏里の手を引っ叩き、その態度に吹き出した杏里はその後、笑いを堪えきれず歌えなくなってしまう。

1984年12月13日、アルフィーが愛知県犬山市のファンの家に突然押しかけ「恋人達のペイヴメント」を歌うドッキリ企画を行ったが、当のファンは留守で、アポ無し企画ゆえにバンドセットが組めないために持ってきたカラオケテープが熱で伸びきった状態で放送してしまい散々な中継になってしまった。アルフィーファンの間では「犬山事件」として語り継がれており、後述のDVD『THE ALFEE ザ・ベストテン&ある日ィ突然! Complete edition 2000』にも収録されている。

【放送事故】1985年に「夏ざかりほの字組」(田原俊彦と研ナオコ)の歌唱時、音楽が歌い手に聞こえなくなり、順番を後に回された。

1985年、吉幾三が「俺ら東京さ行ぐだ」で「今週のスポットライト」に登場した際、1番の途中で歌詞をど忘れし、スタジオは大爆笑。初めからやり直した。ベストテンにランクインした週には、歌の前「景気づけに」と黒柳からすすめられた日本酒を飲んだところ、故郷の青森を思い出し涙ぐんでしまった。

1985年9月19日、カール・ルイスがゲスト出演した回において番組進行が押してしまい、本来流すべきCMが放送できないという事態が発生した。この際、1分間の番組内CMを1回カットするべきところで、TBSマスター担当者のミスから番組内CMを2回分カットしてしまい、番組最後のCMにおいて、本来関東ローカルで流すべきCM4本を全国放送してしまった。

1985年10月17日、「ザ・ベストテンin静岡」において、2位で登場したとんねるずに対して客席は総立ちに。とんねるずは客席から大井川の川越用の輿にのって登場するはずだったが、警備の不備なども重なり観客によって衣装がもみくちゃにされた。激怒した石橋貴明は生放送中にもかかわらず、ステージ上で観客に対して「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」「てめぇら最低なんだよ!」などと罵声を浴びせ、身に着けている物を投げつけたりし、木梨憲武のフォローも構わず、「雨の西麻布」を怒鳴り声で歌った。その態度に対し、番組宛に抗議が殺到し、翌週の放送で石橋が謝罪した。このシーンは2009年10月27日放送の「大日本名作ドラマ主題歌とくばんスペシャル」でも放送されている。その際の石橋の話によれば、当日は「夕やけニャンニャン」の収録後に静岡に向かい、時間の都合上、細かい打ち合わせやリハーサル無しに本番に突入してしまい、客席の中を渡る演出について不安を感じていたようである。

1988年11月3日、南野陽子は3位にランクされた「秋からも、そばにいて」の歌唱の途中で、歌詞の一部を忘れ出てこなくなってしまった。秋真っ直中を思わせる沢山の枯葉を敷いた坂のセットで、南野は歩きながら歌っていたが、本人曰く「ロングスカートが枯葉を散らしてしまわないように気をつけていたら、歌詞が飛んでしまった」との事。その後は手を震わせながら歌い終え、涙ぐみながら頭を下げて謝った。なお黒柳は南野に、歌詞が掲載された台本を見せるため駆け寄ろうとしたが、スタッフに止められたという。この歌詞忘れのハプニングに、南野自身「あの瞬間に歌手生命が終わったと思った」と後に語っている。翌週の登場時、ファンから「失恋したのですか?」「体調が悪かったのですか?」等という南野を心配するはがきが届いたが、南野は「いえ違います、ただのど忘れです。済みませんでした」と笑顔でコメントした。

その他エンディングスポットでの銭湯中継で、フルチンのおじさんが映ったり、小泉今日子「木枯らしに抱かれて」で熱唱中、演出上に登場した犬が排泄するなどある。

第1位に関するデータとして、

第1回(1978年1月19日放送)に第1位になった曲 - UFO(ピンクレディー)

最高得点を獲得して第1位になった曲 - YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(西城秀樹、9999点)

最多連続第1位になった曲 - ルビーの指環(寺尾聰、12週連続)

最年長歌手で第1位を獲得した曲 - 雪國(吉幾三)

12年間を通じて第1位になった曲 - 長良川艶歌(五木ひろし)

第1位を最多獲得した歌手 - 中森明菜(69回)

最終回(1989年9月28日放送)に第1位になった曲 - 黄砂に吹かれて(工藤静香)


全放送での最多出演歌手は田原俊彦の246回に対し、

ベストテン入りしながらも一度も出演しなかった歌手

中島みゆき 「わかれうた」(1978年)「ひとり上手」(1980年)「悪女」(1981年)「誘惑」(1982年)「横恋慕」(1982年)- 出演拒否の理由は、アーティストとしての活動方針と共に「かつて新人時代にTBSの別の音楽番組に出演した際に良くない扱いを受けた」ことが大きな原因とされている。但し1988年の豪華版で、中島自身作詞の「MUGO・ん…色っぽい」で年間ベスト10入りした工藤静香に対し、祝福の電話を入れた時が自身唯一の同番組出演となった。

矢沢永吉 「時間よ止まれ」(1978年)

南こうせつ 「夢一夜」(1978年)

チューリップ 「虹とスニーカーの頃」(1979年)

オフコース 「さよなら」(1980年)(後に「YES-YES-YES」がランクインした時に、小田和正のみがレコーディングスタジオから中継でコメントを寄せた。)

EPO 「う、ふ、ふ、ふ」(1983年)

村下孝蔵 「初恋」(1983年)- 出演しなかったのは本人ではなくレコード会社の意向だったとされているが、実はランクイン当時重い肝臓病を患っていた事を後年公表。1983年の豪華版で年間ベスト10入りした際に、喜びの音声メッセージが流された。一方でディレクターの山田は、出演拒否の理由を「ベストテンのようなメジャー番組に出演することでファンが離れる」ことを本人が危惧したためとしている。

小林麻美 「雨音はショパンの調べ」(1984年)- 当時女優としてのテレビ出演はするが歌手としてのテレビ出演をしない方針だったため。

大沢誉志幸 「そして僕は途方に暮れる」(1985年)非ランキング番組には出演。

松任谷由実 & 小田和正 & 財津和夫 「今だから」(1985年)テレビ出演の意向がなかったため。

ビーバップ少年少女合唱団(清水宏次朗、仲村トオル、宮崎萬純)「ビーバップパラダイス」(1986年)- 当初からこのユニットでの歌番組出演はしない方針だったが、『ミュージックステーション』・『ザ・トップテン』には出演している。

BOØWY 「B・BLUE」(1986年)

内海和子 「蒼いメモリーズ」(1986年)- TBSとフジテレビの関係が悪化し、おニャン子クラブが出演拒否をしていた為、ソロでの出演は無かった。『歌のトップテン』には出演。

尾崎豊 「核"CORE"」(1987年)- 1988年7月7日に出演しない理由のVTRを放送した。

仲村トオル 「IT'S ALL RIGHT」(1988年)- 一条寺美奈とのデュエット「新宿純愛物語」でスポットライトのみ出演。

山下達郎 「GET BACK IN LOVE」(1988年)- 山下本人より「(意向により)出演はしないが、ランクインされたことに感謝したい」との手紙が番組宛に送られた。山下はランクインした週には番組宛に必ず手紙を送り、その都度番組内で紹介された。

氷室京介 「ANGEL」(1988年)- 1988年8月4日の初ランクイン時に番組に出演できない内容の手紙を送る。

米米CLUB 「KOME KOME WAR」(1988年)

藤井郁弥 「Mother's Touch」(1988年)- チェッカーズとしてはもちろん何度も出演しているが、グループ在籍中はソロでのテレビ出演はしない方針だったため、他の歌番組でも一切披露されなかった。

THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」(1989年)

COMPLEX 「BE MY BABY」(1989年)- 吉川晃司はソロで頻繁に出演していた。

宮沢りえ 「DREAM RUSH」(1989年)- 最終回に、最後の初ベストテン入りとなったが欠席。『歌のトップテン』にも1度も出演は無かった。しかし、中山美穂出演の際にゲスト扱いで1度だけ出演した経験が有る。

レベッカ、山下久美子は『夜のヒットスタジオ』には1度も出演しなかったが、この番組には数度出演した。

ベストテン欠席の理由として

レコーディングのため

レコーディングへの準備期間のため

アルバム制作のため

映画撮影中のため

移動中

各方面との折り合いがつかず - 特におニャン子クラブ欠席時にほとんど毎回使用した言葉(フジテレビの意向があったためと思われる)。1986年10月9日から1987年4月2日まで使用された。

休暇のため

試験中のため

コンサート中

コンサートのリハーサル中

体調を崩したため(診断書がよく出てきた)

メンバー間のスケジュールが合わず

バンドのメンバーの都合が悪く

海外旅行のため - 海外に行くとベストテンの順位が落ちるというジンクスがあった。

年内はテレビ出演の意思がないので

出演意思が固まらないため

裏番組のレギュラーを持っているため

労働基準法により(伊藤つかさが15歳未満の時の欠席理由。1987年4月の「ザ・ベストテン延長戦」では、11位に後藤久美子がランクインした際も同じ理由で欠席となった)

ドラゴンクエストII、IIIが発売された時、一部のゲーム好きの歌手がこれにハマり、ベストテンを欠席したという噂もある。

石井明美が「CHA-CHA-CHA」でランクインした際、「もうベストテンではこの曲を歌いたくない。「CHA-CHA-CHA」のイメージを払拭したい」と発言したことがあり、石井がデビューしたばかりの歌手であったことも影響して一部から酷評を受けた。

金輪際一切出演する気はない - TBSとフジテレビ『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブのわだかまりが正式に解消されたが、既に夕やけニャンニャンの番組放送が終了し、おニャン子クラブとしての活動が代々木での解散コンサートを残すのみとなった時に、おニャン子クラブの曲がランクインされた際に使用された言葉。

そんなこんなで日本の音楽界においての影響は大きいものがあり、サザンオールスターズ、松田聖子、アルフィーなどこの番組をきっかけに火がついたのも事実。

ではどうぞ。



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