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本当の「終活」とは何だろう

2017年07月07日 | シニア道

今日(7月7日)の日経電子版に終活見聞録(8)「変わる弔いの風景」という記事が出ていた。

「終活」という言葉が使われ始めたのは10年位前のことで2012年には流行語大賞の一つに選ばれているので、目新しい話題ではない。

ただ各地のイベント会場で「入棺体験」などが行われ、死を話題にすることをタブーとしてきた習慣が薄れてきていることは一つの新しい流れかもしれない。それと関東圏の一部では7月15日お盆の行事が行われるというから、人の死という問題を考える機会が増えるということも記事の背景もありそうだ。

私は余り「終活」という言葉が好きではない。死ぬ前に自分の人生を整理して残された人の負担を軽くするという行動自体はとても重要なことだと思うが、「終活」という言葉で括られると一過性のブーム、という薄っぺらなイメージに置き換わってしまうからだ。

詳しく調べた訳ではないが、「終活」という言葉が流行語になるのは極めて日本的な現象だと思う。

もちろん諸外国にも「死に対する準備」という概念はある。世界的に見て「死に対する準備」を大きく分けると「遺産や遺品の処分など世俗的な事柄の準備」と「自分の死後の世界に対する宗教観に基づく準備」に大別できるだろう。死んだ後どうなるか?という点について宗教を3つのパターンに分類できると私は考えている。第一はキリスト教・イスラム教に代表される「天国・地獄型」である。人は生前の行いの良し悪しにより、審判を受け天国または地獄に送られるという考え方だ。第二はヒンドゥ教に代表される「輪廻転生型」である。人は生前の行いにより六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のいずれかに生まれ変わるという考え方だ。仏教の根本も「輪廻転生型」であるが、色々な宗派が異説を立てているので一括りすることはできない。第三は日本などで多く見られる「その他型」で、無宗教から祖霊信仰まで幅広い。その中で祖霊信仰と仏教が融合した日本仏教を感情先行・論理あいまい型と私は分類している。

宗教というのは私は壮大なフィクションだと思っているが、世界的な宗教はフィクションの中で論理の統一性を保っている。しかし日本仏教型は、フィクションの中の論理の統一性が保たれていないと私は考えている。例えば「お盆」というのは日本固有の風習で、お盆の期間に祖霊が帰ってくるという。しかしこれは「輪廻転生型」仏教とは矛盾する。仮に人が死んで牛に生まれ変わったとしよう。お盆に牛に生まれ変わった人の魂が戻ってくるとすると、その間牛はどうなっているのだろうか?

少し小理屈を並べてしまったが、論理的で自己完結性の高い宗教観の欠如が、私は「終活」を日本でブーム化させている一つの要因ではないか?と考えている。

論理は違うが「天国・地獄型」と「輪廻転生型」は高い自己完結性がある。つまり人はこの世で行った行為の良し悪しにより、来世の行き場所が決まるので、良いところに行こうと思うと善行を積むしかない。日本型の場合は、本人の善行が不足していても、遺族が「追善供養」をすることで下駄をはかせることができるが、「天国・地獄型」「輪廻転生型」ではそのような救済措置はないから、人は死ぬ前に善行を自ら積む必要がある。世界的な宗教に共通する善行の代表例の一つは「喜捨」だろう。キリスト教は「金持ちが天国に行くのはラクダが針の孔を通るより難しい」という言葉で、必要以上の蓄財を戒め、貧者への施しを促している。仏教は「施しは無上の善根」という言葉で喜捨の重要性を強調している。

「天国・地獄型」「輪廻転生型」の世界では、程度の差こそあれ、貧者への施しとそのベースになる絶対的なもの(神であれ運命であれ)に対する畏れ・謙虚が大切であり、その世界における「終活」とはこれらのことを実践することではないか?と私は考えている。

一方日本型の宗教観の場合は高い自己完結性がないので、お寺から高い位の「戒名」を貰うことや、死後の追善供養にすがることになる。悪く言えばこれは日本仏教が信者から寄付を集めるために作り出したフィクションという面があるだろう。

さて「世俗的な事柄」に対する「終活」で私が大切だと考えていることは3つある。第一は「意思能力が低下した時への備え」だ。つまり意思能力が低下した時の後見人を定めておくことである。第二は「終末期医療」でどの程度延命処置を施してもらうかを明らかにしておくことである。第三は多少遺産がありそしてその分割についてもめ事が発生する懸念がある場合は遺言を作成しておくことである。

これが本当は重要な「終活」と思うのだが、各地のイベントではそれを企画する企業のコマーシャリズムが企業側の商売につながる「終活」にスポットライトをあてている。「終活」で重要なことは、宗教界やイベント会社が作り出したフィクションを乗り越えて、如何にして自己の尊厳を維持するかということを考えることなのである。

 

 

 

 

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