山で猿を見かけることが多くなっている。猿が増えているのか、餌が少なくなって人間世界に足を踏み入れる結果、猿を見る機会が増えているのか、その原因は知らないが。
先週末出かけた槍ヶ岳でも多くの猿を見かけた。最初の群れはババ平の少し上、大きな残雪が残っているところにいた。
立ち止まっている登山者に聞くと「猿が邪魔して通れません」という。私が先頭になり、金属音を出す笛を吹いて猿をどかそうとしたが、猿は驚くどころか牙をむいて我々の方を睨んでいた。子猿がいたので警戒レベルを高めていたのだ。猿の群れを刺激しないように静々と歩き事なきを得たが。
槍ヶ岳と猿というと、1,2年前にNHKの地球・不思議大自然という番組で槍ヶ岳に登るニホンザルの一群を追いかけた番組を見たことがある。その猿は槍ヶ岳の北側つまり高瀬川の上流から槍の頂上を目指して餌を採りながら移動していた。
人間は遊びのために槍ヶ岳に登るけれど、猿は生きるために槍ヶ岳に登るのである。猿の威嚇の方が迫力があるのは当然かもしれない。人間は作物を荒らす動物を害獣と呼ぶが、猿からすると自分たちの領域に侵入してくる人間は害人と呼びたいかもしれない。
二度目に大きな群れを見たのは、横尾から徳沢に下山する時だ。雨の中を沢山の猿が登山道を横尾に向けて移動していた。そこは梓川の河原が大きく広がったところで、河原を歩く猿も多くいたが、一部の猿は人間との接触を恐れず登山道を歩いてくるのである。
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉
という句があるが、梓川の猿は丸々と太っていて少々の雨など物ともせず堂々と歩いていた。今日の朝刊に餌がなくてガリガリに痩せた北海道のヒグマの写真が出ていたが、梓川の猿は食物事情は良さそうに見えた。
芭蕉の猿の句というと、
猿を聞く人捨て子に秋の風いかに という句がある。
古来漢語では猿の声は断腸の思いをさせるものとしてきた。句の意味は「猿の声にすら断腸の思いを抱く詩人たちよ。あなたがたは秋風の中で命が絶えそうになっている捨て子の声を何と聞くか」というところだ。
猿の鳴き声は今回も一二度聞いたが、中国の詩人でない私に断腸の思いはわかない。子猿を背中に乗せて悠々と歩く猿を見ると、捨て子などいない猿の方が人間より幸せなのか?という気がしてきた。
槍ヶ岳の猿は色々なことを考えさせる猿だった。