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追憶の彼方。

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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(4)

2019年07月31日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(4)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達
江戸末期、幕末の日本は封建国家ではあったが学問も発達し識字率は地方も含め世界最高水準、通信網・上水道等インフラや金融・商業・家内制手工業等近代国家として世界に誇れる水準に達して居り、先進国並みの近代化へのプラット・フォームは既に出来上がって居たのである。明治維新はこの基盤に西欧の近代システムを模倣し導入したものである。
憲法制定、議会制度や近代的常備軍隊の導入、廃藩置県・身分制度の打破といった西欧型社会への大改革を行った背景には、当時日本のお手本であった文明国インド・中国が西欧列強に植民地化され搾取される状況に大きな危機感を抱き、攘夷では到底勝ち目がない、西欧列強の侵略に対抗し、さらに徳川幕府が結ばされた不平等条約を改正させる為には、「自らが西欧列強の仲間入り」をすることが最短・最良の道あると言うことに思い至ったのである。幸い大政奉還により大きな内戦には至らず欧米列強につけ入る隙を与えなかった為、文明開化、富国強兵に邁進出来たのが維新成功の大きな要因ということが出来る。ここまでは良かったが、その後の吉田松陰の思想を受け継いだ山縣有朋を頂点とする覇権主義者がその考えをエスカレートさせ道を誤った。
軍の近代化に成功を収めた日本は日清戦争で朝鮮を開国させたが,朝鮮は日本の支配を嫌い大韓帝国と改名してロシアに接近し始めた。ロシアは満州を占領、日本が清国から賠償で得た遼東半島を三国干渉で止む無く清国に返還していたが、これを租借権として確保し着々と南下政策を進めていたのである。ロシアの韓国支配の意図が明白となった為、ロシアの日本侵略に危機感を抱いた桂首相や山縣有朋は伊藤博文の満韓交換論を軟弱だと排し、ロシアの中国進出を嫌うイギリスと日英同盟を結び、米英の支援を得て1904年日露戦争を始めた。当時ロシアは人口で日本の3倍、歳入額で10倍、兵力で15倍。しかも、兵器と装備は西洋式で、陸軍は日本より遥かにハイテク化されており、まさに日露戦争は安全保障上の一か八かの大博打であった。結果は大きな犠牲を払ったが奇跡的に勝利し、1905年9月のポーツマス条約締結で、日本は韓国の保護権が承認され、ロシアからは南樺太、「南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権」を得ることになった。 更に韓国に対しては此れに留まらず軍事圧力を加えて幾つもの条約を結ばせ1910年の韓国併合条約で植民地化を実現した。これ以降韓国は日本の一地方として朝鮮と呼ばれることになったが抗日運動が絶えず前の韓国統監伊藤博文が1909年、満州のハルビンで韓国の独立運動家安重根により暗殺された。
伊藤博文は「満州に於ける日本の権益はポーツマス条約でロシアから譲り受けた満鉄と遼東半島の租借権だけであり満州は日本の属国ではない。条約には「満州では清国の主権を認め日露双方は撤兵し、満州の活動は各国平等とする」となっている。これを無視して満州に軍を駐留させ独占的な運営を行った為に日本の支援者であった英・米は日本に不信感を抱き猛烈に抗議を始めた。伊藤博文は米英と協調路線を主張し、両国との満州共同経営も考えるべきであると主張していた。これに対し日露戦争開戦強硬論であった陸軍参謀総長・児玉源太郎,山縣有朋、桂首相、寺内正毅等陸軍軍閥や小村外相等が反発、伊藤暗殺の不穏な声すらあったと伝わっている。暗殺・謀略,国の器は近代化されたが指導層の人間の意識は幕末と何ら変わっていなかったのである。
伊藤博文の死を契機に山縣有朋の推進する軍事大国化、覇権主義に歯止めがかからなくなり満州事変、日中戦争、太平洋戦争に繋がって行くことになる。
日本の真珠湾攻撃、多くの外国人が常識では考えられないと言うような日本歴史最大の愚挙によって多くの生命・財産を失わせ、国民の多くを不幸の存底に突き落とし滅亡への道に突き進んだ。その原因は①日清戦争や安全保障の為に始めた日ロ戦争で得た賠償金や権益等が軍や多くの国民の領土拡大の野心に火を付けたこと。又無謀な戦術で如何に多くの犠牲を払っても軍功さえ挙げれば出世の道が開けており貴族への道も夢では無いという悪しき風潮を軍上層部・指揮官の間に根付かせたこと。
②岩倉使節団のメンバー伊藤博文等が普仏戦争に勝利したプロイセンのビスマルク首相が唱える「国家の統一に必要なのは、鉄と血、つまり兵器と兵士である。万国公法より力である」と言う理論に感銘を受けドイツ帝国の君主制を真似て大日本帝国憲法を策定した。この明治憲法よって山縣有朋が軍事国家への道を開くのを容易にしたのと、日本の政治に統帥権の独立という最悪の統治システムを導入することに繋がった。 この統帥権の独立によって陸海軍は内閣や国会の意向を無視して行動する自由が与えられた。 「天皇の命令以外では軍隊を動かせない」というこのシステムは、一方で「君臨すれども統治せず」という天皇の権能と矛盾しており結局首相や陸軍大臣・海軍大臣などは軍の作戦などに口をはさむ余地がなく天皇の権威を悪用して「陸軍・参謀部」、「海軍・軍令部」及びその両者から成る大本営がその権限を握るという結果になった。陸軍の暴走の真因は統帥権の独立に存在したのである。
③ 5.15事件、2.26事件が発端となって軍の若手将校による政府要人の暗殺の空気が俄かに強まり、無法地帯の様相を示し始めた。多くの財界人や政界・官界の要人暗殺が相次いだ。統帥権と言う伝家の宝刀を悪用し、頭に血が上った無能な佐官クラスの軍人が国の運命を決める重要事項を差配し、政治家や軍の上層部までもが暗殺を恐れ、これにブレーキをかける強い政治力を発揮できる者がいなくなった。 
以上のような状況の中で陸大出身の過激な将校を中心に陸軍は政府方針を無視し満州に侵略、その権益保持を図るために日・中戦争に没入することになる。中国の戦力を軽視して始めた戦争であるが、その背後には米・英・仏・ソ連(当初はドイツも)の支援体制が出来上がっており戦争は泥沼化した。戦争を決着する為には彼らの支援を断ち切る必要があり、最悪の選択と言われる「日・独・伊3国同盟」を利用してアメリカを牽制しようとしたのである。白人至上主義のヒトラーにとって日本は第一次世界大戦に於いて空き巣泥棒のような行動で自国ドイツの支配地を奪った敵対国であり、黄色人種と蔑む相手と同盟を結ぶことは「勝つ為の悪魔との握手」であると迄言わしめている。
元々岩倉使節団のビスマルク信奉に始まり日本にはドイツ賛美者が多く政府や軍の幹部にはドイツ留学生が多くいた。三国同盟や日米開戦の強硬推進論者の殆どはドイツ経験者で、ヒトラーの本質を見破り、ドイツの戦況が日増しに悪化するのを冷徹に判断する有能な人間の声が無視されるような状況になっていたのが日本の悲劇あった。元々ソ連を牽制する為に結ばれた日独防共協定が紆余曲折を経てアメリカを念頭に置く三国同盟に変質したのはヒトラーの策略によるものである。ヒトラーはアメリカの欧州参戦を阻止するために、アメリカをアジアに釘付けにしようと日本を利用したもので、まんまとその術策に乗せられアメリカと戦争せざるを得ない状況に追い込まれていくのである。
アメリカを硬化させたのは1938年の近衛首相の行った「東亜新秩序声明」である。この声明で日本による欧米植民地の解放と中国・満州との連携を明確に打ち出した。後の「大東亜共栄圏論」のさきがけと成るものでアメリカの対日不信感を増幅することになった。日本の経済的弱点を熟知していたアメリカは経済制裁に打って出た。1939年「日米通商航海条約の破棄」を通告して来た時点で鉄鉱石・石油の7割、兵器を作る工業機械の6割がアメリカからの輸入でアメリカ無しでは国も軍も維持出来ない状況だった。
それにも拘らずアメリカに譲歩する事もせず、ドイツがイギリスを破ればアメリカは戦意喪失するだろうという全く根拠の無い夢物語に希望を託してアメリカが極度に嫌うドイツと1940年「三国同盟締結」に踏み切ったのである。この時点でドイツの対ソ戦線は敗北に傾きかけていたのは前回ブログのとおりである。しかし兵士・国民の命を預かるドイツ信奉者にはドイツが破れ崩壊するなどという状況は全く念頭になく、危機管理能力皆無の状況であった。結果的に見てドイツとの三国同盟は日本にとってメリットは皆無、大きなマイナスだけが残ったのである。
アメリカの輸出規制で資源不足に陥っていた日本は資源を求めて南部仏印(現ベトナム周辺)に進出、この二つがアメリカを更に刺激し、在米日本資産の凍結と石油の輸出停止に踏み切りイギリス、オランダもこれに追随した。軍の早期開戦論に対し政府南部仏印進出以前からルーズベルト大統領の友人であった野村吉三郎駐米大使を交渉役に立て「中国への支援停止と輸出制限解除」を求めて和平交渉を行ってきた。交渉相手の米国はハル・国務長官、「日本の三国同盟破棄と中国大陸からの撤退」を求め交渉が行われてきたが業を煮やした日本軍部はアメリカを甘く見て、交渉途中であることも無視し、源確保を目的に南部仏印(現ベトナム周辺)に進出、アメリカにとって「最後の一線」を超えてしまうことになった。アメリカの対日感情は一挙に悪化し、在米日本資産の凍結と石油の輸出停止に踏み切りイギリス、オランダもこれに追随したのである。日本軍部の再度に亙る見通しの甘さが最悪の結果を招く事になったと言うことが出来る。
当時日本は日中戦争で一日1万2千トンの石油を消費しており此の侭では座して死を待つのみ、早期対米開戦しか道が無いという強硬論に対し若干の譲歩案で期限付き対米交渉による戦争回避に希望を託したが1941年11月アメリカからハルノートが提示された。①南部仏印を含むアジアからの無条件撤退、②アメリカが支援する中国国民党のみの承認 ③三国同盟の破棄を含む10項目の要望、この要望の受け入れを条件に輸出の再開と経済制裁を解除する、というものであった。中国大陸を満州事変の前の状態まで巻き戻せと言う要望は満州を日本の生命線と考える陸海軍若手参謀を一挙に強硬論に走らせ、政府や軍の一部上層部にもこれを阻止する力が無く、日米開戦・真珠湾攻撃に突き進むことになった。

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(5)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達
太平洋戦争の開戦から敗戦までの戦闘経過は下記の通り。日中戦争、真珠湾奇襲、シンガポール攻略、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島争奪戦、アッツ島、タラワ島、サイパン島、硫黄島の死闘、マリアナ沖とレイテ両大海戦、最後の沖縄大決戦 
この間の亡国の責任者はだれか。極東軍事裁判の結果も踏まえ検証したい。

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(3)

2019年05月23日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(3)
        …亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 
明治維新は欧米列強の外圧をはね退け、日本国の独立を守ることにあったが、その為には一刻も早く彼らに追いつく必要があるとして取られた施策が「文明開花」と「富国強兵」である。「王政復古」は富国強兵を達成・強化する為の手段であった。
明治維新政府が長州藩、吉田松陰の思想的影響を受けた人間が中心であった為、松陰の覇権主義が常に頭にあったことは想像に難くない。持たざる国、日本が富国強兵を推し進め、それが平衡感覚を失って行き過ぎ始めたとき、覇権主義、他国への侵略に繋がることは必然であった。維新直後に既に台湾出兵、琉球処分、征韓論が顔を出し,山縣有朋が実権を握ると日清戦争、日露戦争へと繋がって行く。 この侵略戦争の勝利が軍部を傲慢にし、メデイアや学者がこれを煽った為に情報不足の国民が軍を後押しする構図が出来上がった。
軍部の横暴を許したのは政治の弱体化に加え、山縣が作った軍部大臣(陸軍・海軍)現役武官制と若手将校によるクーデターであった。軍部大臣現役武官制により国政は軍部の意向に逆らえなくなり、海軍将校による5・15事件では当時の政党政治への不信感から犯人の将校たちに対する国民の助命嘆願運動が巻き起こって、将校たちへの判決は軽微なものとなった。このことが反乱・クーデターを起こしても罰せられないという空気を生み、二・二六事件・陸軍将校による反乱を後押しすることになった。この事件では昭和天皇の命により関係者は処刑されたが、政治家や軍上層部を震え上がらせ若手軍人による再度の反乱を恐れるようになった。
これを契機に大局感や先見性の乏しい若手軍人が政治に口出しを始め、対中・対米英開戦への大きな心理的圧力となったことは間違いなく、日本は軍国政治に突っ走り始めたのである。
華族の爵位授与を固辞し続けたため、「平民宰相」と呼ばれた原敬は当時「政党を殺すのは軍部と検察だ」と語っていた。民主主義を嫌った国粋主義者・平沼麒一郎らが幸徳秋水等の冤罪死刑で有名になった大逆事件の功績で検察は大きな権力を得た。彼らは大きな検察権力を使って政党潰しを行った為、政党弱体化に拍車をかけることとなった。事件をでっち上げそれを糧に出世しようという悪弊はこの時出来上がり、今も検察に脈々と受け継がれている。
昭和になると、日清・日露戦争当時の山縣・長州閥中心の軍幹部に替わって、陸軍士官学校・海軍兵学校を優秀な成績で卒業したエリートが軍部官僚として軍を支配することになった。巨額の国費、多数の兵の犠牲を出しても軍功を上げさえすれば貴族への道さえ夢ではないという明治指導者の悪しき前例により職業軍人こそ出世の近道であるとして学業優秀な若者を陸士・海兵へ誘い、無謀な戦争、作戦に駆り立ててゆくことになる。(事実、満州事変の関東軍司令官・本庄繁は男爵の爵位を得た。)
戦後連合軍による極東軍事裁判の結論は「軍国主義日本の政・財・官・軍の中心人物達が共同謀議し計画的にアジア征服に乗り出した」というものであった。しかし日中戦争や太平洋戦争の引き金を引いたのは共同謀議というような組織立ったものではなく、中堅幕僚(参謀)の暴走に引きずられたというのが真実であろう。
陸海軍の反目、陸軍(皇道派,統制派)、海軍(条約派=海軍省側、艦隊派= 軍令部側)各々の内部での対立・派閥抗争等を繰り返し、組織がバラバラで明確な戦争の統一的な意思や計画などというものは無く、野心的な軍事テクノクラート達が個人的な軍功を立てる為に勝手に動きまわって国政を誤らせ日本崩壊に導いていったということが出来る。
この中堅幕僚の暴走の発端は陸軍の派閥組織・一夕会の有力メンバーで当時関東軍の参謀であった石原莞爾や板垣征四郎による陸軍中央の統制を無視して実行された満州事変・満州国の建設である。現場の独断専行にも拘らず責任を問われることが無かったのはメデイアに扇動された世論の「満州に権益を確保した」という賞賛の声に押され政府や軍幹部も処罰・信賞必罰の行動がとれなかったことが大きい。この事件が「結果良ければ全てよし、お咎め無し」の風潮を生み、軍の独断専行と「権力の上層部から中堅幕僚への下降」をきたす契機になったのである。
その後参謀本部作戦部長に栄転していた石原莞爾は、一夕会メンバーの4年後輩で関東軍参謀・武藤章による中央統制無視に泣かされ、盧溝橋事件が発端となった日中戦争では、作戦課長に昇進していた武藤の戦線拡大論に敗れ関東軍参謀副長に左遷されることなった。石原の考えは満州で国力を蓄え大国と戦う準備ができるまでは紛争・戦争を拡大すべきでないという信念に基づくものであった。この下克上により陸軍の権力は課長クラスにまで下りたことになる。石原は左遷された関東軍で当時の関東軍参謀長・東條英機と満州国の運営構想で対立し急激に勢いを喪失した。しかし其のお陰で極東軍事裁判で石原は被告人にもならなかったが、軍内部で敵の多かった武藤は中将という階級で唯一人死刑判決を受けた。武藤が『一撃で中国を屈服させられる』として戦線拡大を唱え、軍上層部もこれに同調したのは松岡洋右外相の「ナチスドイツがイギリスを倒せば、アメリカが欧州での足場を失う事になるというドイツ過大評価の全く根拠の無い期待・願望に基づくものであった。日本はそれを頼りに日独伊三国同盟を結び、しかもドイツが1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたので、三国同盟にソ連が加えた4ヵ国連合を結成すれば、アメリカを封じ込めることが出来るという松岡や武藤の独りよがりの楽観論が政府や軍にも蔓延していた。このような状況下、松岡がほぼ独断で41年4月「日・ソ中立条約」を結んだが、それから2箇月後に、何とドイツが不可侵条約を破棄してソ連と戦争を始めた。
時の首相・平沼騏一郎は日本政府を無視し反共姿勢に転換したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日「欧州情勢は複雑怪奇」 という無責任極まる声明とともに政権を放り投げてしまった。 ドイツとの関係を断ち切りアメリカとの関係を修復する最後の機会であった。
ヒトラーは日本を想像力の欠如した黄色の劣等民族の集団だと考えており、今迄の外交政策から心底日本を信頼していたわけではない。一方日本の大本営・参謀本部にはヒトラー崇拝者はいたが、この人物の本性、とりわけ一方的に条約を破棄し相手を平気で裏切るというような凡そ信頼に足る相手ではないことを冷徹に見抜くような人物がおらず、大勢に流されドイツ頼みの南進政策、破滅への道を進んでいくことになる。 前回のブログで触れた通り、対ソ戦でドイツが優勢だったのは開戦後の半年だけで年末にはドイツの敗色は濃厚になりつつあり、アメリカの支援で頑張りとおしたイギリスは息を吹き返し始めていた。
東条や日本陸軍は冷静な情勢判断が出来ず、落ち目のドイツを頼りに大国「米・英」に戦争を仕掛けるという愚行に出たのである。しかし当時参謀本部には海外から貴重な情報が届けられていた。
NHK特集「日米開戦不可ナリ…ストックホルム―小野寺信大佐発の至急電」というサブタイトルが付いた特集番組で詳細に報じられている。当時のストックホルム駐在武官・小野寺信から参謀本部への詳細な情報と日米開戦不可の進言である。同盟国・ドイツがイギリスではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、その後のドイツの「対ソ連戦」の戦局が不利な状況になりつつあると言った情報を得て、英米への「開戦不可」を30回以上も打電した。例えばその情報とは「ドイツ軍は東部へ向かい戦死者のための棺を多く輸送している」などの客観的事実である。小野寺は、祖国愛に燃えるポーランドの情報収集武官からの情報によって当時の欧州の戦局を正確に掴み、ドイツ側からの情報だけに頼るのは危険であると日本本国へ何度も警告した。太平洋戦争末期の昭和20年02月、ルーズベルト・チャーチル・スターリンの米英ソ三首脳によるヤルタ会談とその中でソ連の対日参戦が密約された情報を得た小野寺は、ただちに「戦争を終結すべし」との打電をこれも必死に繰り返したが日本の参謀本部はその情報を無視し、ヒトラーと親交が深くナチスに心酔していた「陸軍軍人大島浩ドイツ大使」の情報だけを採用して、ついに日米開戦に踏み切ったのである。同じ情報は駐スイス公使阪本瑞男からのドイツ帝国瓦解との本国電も黙殺し、大島によるドイツ有利との誤った戦況報告を重用し、戦争を継続し続けて亡国に突き進んだ。
当時参謀本部の中枢に居て数々の作戦に関与していた瀬島龍三は「そのようなドイツの対ロ戦局の情報が知らされていたら断固として日米開戦を阻止した」と戦後述べているが、極東裁判における責任逃れの虚実発言や大勢順応型の処世術等から判断し大本営の対米英開戦の空気に逆らうような発言を避ける必要があると判断し、貴重な情報を握りつぶしたとの見方が強い。当時東条はじめ軍幹部の多くはドイツ駐在の経験者でありドイツ信奉者多かったのである。大島浩、瀬島龍三共に極東裁判で自分は当時重要な方針を決定できるような立場になく、上層部からの命令で動いたに過ぎないとすぐに底が割れるような責任回避の虚実発言を繰り返している。
余談ながら民間人の中にも日米開戦を阻止しようとした人物がいた。「粗にして野だが卑ではない」という有名な石田語録、新幹線開通時の国鉄総裁として世に知られる石田礼助氏である。昭和14年(1939年)三井物産社長に就任したがシアトル・ニューヨーク両支店在籍経験のある石田はアメリカの国力を熟知しており戦争しても全く勝ち目はないと考え、三菱重工業の郷古清社長等有力財界人を集め戦争をやめるよう説得工作を開始した。日本鋼管社長の浅野良三が天皇の側近である木戸幸一に、石田は海軍大将岡田啓介、更には高松宮をも訪ね詳細な資料を持参して熱心に陳情したが、唯一反応があったのは三井高公(三井家11代当主)からの呼び出しでその場で辞表を書かされこの動きは鎮静化してしまった。
三国同盟・対米開戦一色の軍内部でもこれに反対する軍人は少数ながら居た。東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政(49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。)・若槻礼次郎・岡田啓介・宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。

米内海軍大臣は、日独伊三国軍事同盟に終始反対し、8月の総理・陸・海・大蔵・外務の五相会議の席上で、3国同盟を締結すると日独伊と英仏米ソ間で戦争となる、海軍として見通しはどうかと問われた時に米内は「勝てる見込みはない。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されていない。独伊の海軍にいたっては論外」と言下に答えた。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止めたことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉をかけたという。
若槻礼次郎や岡田啓介は、木戸幸一の推す東條英機の首相就任に反対し、戦争末期には終戦工作に関与し、東條内閣の失政を追及して倒閣に重要な役割を果たした。
対米・英開戦に至る動きは前回ブログのとおりであるが、この無謀な戦争の責任者は誰かについて次回ブログで触れたい。
尚昭和天皇や入江侍従長とも面識のあった田中清玄は入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」という昭和天皇の発言を自著に記している(Wiki)。 伊藤忠商事入社後は岸信介首相とスカルト大統領との間で取り決めた800億円強のインドネシア賠償に悪名高い辻参謀や軍隊時代のコネを利用し伊藤忠を食い込ませ、利権網を築いた。これを皮切りに日韓条約ビジネス、日本の2次防バッジシステムビジネス等を通じ田中角栄や中曽根康弘等政界大物との人脈を築いて会長にまで上り詰める。会合での挨拶・演説では「対米戦争は自存・自衛の為に立ち上がった。大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません。」 瀬島や岸信介には多くの生命・財産を無駄にし亡国に導いたことに対する反省・悔悟の言葉は一切見られない。


戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(4)
日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(2)

2019年04月26日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(2)
        …亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 
中国は度重なる日本の侵略行為に対し怒りが頂点に達し中共合作に成功、中国一丸となって対日抗戦を始めた。
その原因の一つは第一次世界大戦開始の翌年、ドイツが欧州での戦争に忙殺されている隙に中国に法外な21か条の要求を突きつけドイツが中国で所有していた権益を火事場泥棒的に強奪したうえ、それを半永久化するような内容であったこと、この要求の大部分はベルサイユ条約では承認されたものの連合国の一員だった中国は猛反発し中国国内で反帝国5・4運動に繋がった。
又既述の関東軍が独断で満州事変を起こし満蒙に侵略して世界の批判をかわすため満州国を建国した。更に自作自演的な張作霖爆殺事件・柳条湖事件・盧溝橋事件を引き起こし、それが発端となって到頭日中戦争にまで発展した。関東軍は首都南京での非戦闘員も含めた大虐殺事件を行い中国人民の抗日機運に火をつけた。日本は南京が陥落すれば中国政府はすぐに屈服するだろうと安易に考えていたが、中国は首都を南京から武漢に移し陥落すると更に内陸部の重慶に移してゲリラや一般市民を含め徹底抗戦を始めた。
日本では軍部が横やりを入れ組閣もままならず、西園寺が最後に選んだのが5摂家筆頭の近衛家当主・近衛文麿だったが,世間知らずの近衛は戦闘は短期に終わらせることが出来ると安易に考え、「中国と和平交渉はしない」などと強気の宣言をしたが、この見通しの甘さによって中国戦線の泥沼に嵌まり込むこととなった。しかし巨額の戦費と兵員の投入にもかかわらず好転しない情勢に備蓄した油・鉄鋼・機械・兵器等の軍需物資の喰い潰しが続いた為、堪りかねた政府は3度に亙る謀略的な和平策を提示したが日本の意図を察知した中国サイドに受諾の気配は全く見られず日本の北進政策はノモハン事件の失敗等々が重なり頓挫したまま事態の膠着状態が続いた。

一方満州事変以降国際的に孤立状態であった日本は同じく国際連盟を脱退していたナチス・ドイツと1936年に対ソ・日独防共協定を締結したが、1939年ドイツが「独ソ不可侵条約」を締結した為事実上の空文となった。そこで翌1940年(日・独・伊3国)は曖昧だった三国の協力関係を具体化し、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独・伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか1か国がヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助すると取り決めがなされた。
ドイツ・ヒトラーはアメリカの支援で激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、矛先を変えて共産主義を標榜し思想・主義が合わず地政学的にも対立するソ連をドイツ生存圏の拡大の為に撃破しようと目論んでいた。そこでソ連と満蒙の利権を争っていた日本と手を結ぶことを考え、日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力を東西に分断し、さらには日本の対英参戦により極東のイギリス植民地・英連邦諸国からの人的・物的支援を絶つことによって戦争を優位に進めることができると考えたのである。
一方満州に野望を抱いていたアメリカは1938年11月に、近衛首相が「日本と満洲、中国を政治的・経済的・文化的に結合させて大東亜新秩序を建設する」との国策上の方針(第2次近衛声明)を、全世界に向けて発表すると、中国市場が日本によって独占される可能性の高まったと強い危機感を覚え、日中戦争で中国側に味方する方策へと路線を転換した。中国に借款供与すると同時に何時でも日本を経済制裁できるよう1939年日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。日本への石油等軍需物資の輸出ストップである。当時日本は石油資源の70%以上をアメリカから輸入していたので,その石油を使ってアメリカが支援する中国と戦っていたのである。
日本政府は日独伊防共協定を軍事同盟に格上げ強化しドイツと手を結ぶことによって、アメリカを牽制し日中戦争を有利に展開することが出来ると読んでいたが、海軍を中心とする英米協調派、陸軍の石原莞爾、昭和天皇。元老西園寺等反対が多く中々実現しなかった。ところが1940年に入りフランス・オランダがドイツの手に落ち、イギリスが戦線離脱・本土防衛一辺倒というドイツの圧倒的優勢が伝わると、このニュースに幻惑されバスに乗り遅れるなという陸軍の声が一挙に強まって軍事同盟論者の松岡洋右を外務大臣に登用した近衛第2次内閣が1940年一挙に3国軍事同盟に舵を切った。軍事同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明、更に「海軍は対米戦争は負けると言っている」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は「ドイツは信頼すべき相手である」、対米開戦に就いては日露戦争の際に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死にする」と語ったという芝居がかった、幼稚・無責任極まる発言を引き合いに出し、「及ばずながら誠心奉公すると回答した」。天皇は「万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するので、神様のご加護を祈りたい」と話したという。(出wiki)
 親ロシア派の松岡外相は翌1941年、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、その帰路モスクワに立ち寄って、「日ソ中立条約」を電撃的に調印し、ドイツの意向を無視して単独でソビエトとの相互不可侵を確約してしまった。シベリア鉄道で帰京する際には、喜びのあまりスターリン自らが駅頭に見送り、松岡を抱擁するという極めて異例な場面があったと伝えられている。ヒトラーはスターリンの領土要求に腹を立てソ連侵攻に舵を切っていたのである。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」との情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。案の定本条約の締結3か月後、ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した。膨大な機甲部隊を投入したドイツ軍の電撃作戦によりソ連は大敗を喫し、たちまち国家存亡の危機に追い込まれた。この時松岡はじめ日本政府はどのような対応をとったか。独ソ開戦10日後の御前会議で『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を決定しているがその中で、「三国極軸の精神を基体とするが、暫く独・ソ戦闘には介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整えておく。 独「ソ」戦争の推移が我が帝国にとって有利に進展する場合には武力を行使して中国北方問題を解決し北辺の安定を確保する。驚くべきことに、この国策のどこにも日ソ中立条約を遵守しようとするような意志は見られない。 日本は、日ソ中立条約締結からわずか三ヶ月の時点で、明白な条約違反となることを承知のうえで対ソ戦準備を進めていた。実際には戦端を開くことはなく本中立条約は日本の敗色が濃厚になっていた太平洋戦争末期・1945年のソ連の一方的条約破棄・対日参戦で終了した。日本が条約を破棄しなかったのは単にドイツの進撃が期待したほどには有利に進展せず、極東ソ連軍の西送による減少も予想したほどのペースでは進まなかったからでノモハン事件の失敗に懲りてソ連との戦争を避けよう、「北進より南進が重要」と考えたからに過ぎない。松岡外相はその後の時局懇談会の席上「ドイツが勝ちソ連を処分する時、日本は何もせずに要求だけをすることは出来ない。血を流すか、何らかの外交努力が必要だが血を流すのが一番良い。ドイツも日本が何をするかを考えているだろう」と述べている。相も変らぬ火事場泥棒的発想である。一方的にソ連だけを非難することが出来ない背景があったのである。

しかしドイツが優勢だったのは開戦後の半年だけで年末にはドイツの敗色は濃厚になりつつあり、アメリカの支援で頑張りとおしたイギリスは息を吹き返し始めていた。東条や日本陸軍は情勢判断が出来ず落ち目のドイツを頼りに大国米・英に戦争を仕掛けるという愚行に出たのである。
日本国内ではドイツ・ナチスに倣って一国一党の組織を作ろうという新体制運動がおこり軍の強い後押しもあって各政党は解散し大政翼賛会が結成され対米・英戦時色一色となった。
日本はこの3国同盟を梃に対中戦争を一挙に決着をつけるべくフランス領インドシナ(ベトナム)北部への進駐を開始した。中国への援助ルートの遮断が当初の目的であったがドイツに屈したフランス領を火事場泥棒的に奪取することが最終目的あった。更にイギリスに対してもビルマ・香港ルートの中国への援助ルート遮断を要求し一時的ながらこれも認めさせた。
日本の北進から南進政策への転換は米英に大きな脅威を与え米・英・オランダ等は鉄や石油の対日全面禁輸に踏み切った。とりわけアメリカは強硬で対米交渉に希望をつなぐ近衛首相が中国からの撤兵を含む妥協案で切り抜けようとしたが、陸軍が「シナ大陸で命を捧げた多くの尊い英霊に申し訳が立たない」と猛反発、外交交渉は無理だと判断した近衛内閣は総辞職してしまった。(多くの英霊を作った責任が中国を甘く見た無謀な陸軍自体にあったことは頬被りである。)
当時日本の石油備蓄は2年分、交渉を長引かせることは不味いと対米・英開戦も視野に入れ始めた。
そこで登場したのが陸軍大臣だった東条英機である。東条は2.26事件で皇道派が後退したこともあって昭和天皇の評価も良かったが対米主戦論者の東条が総理になったことで日本の行く末が決まったと言って良い。陸軍大臣兼務のまま天皇の命令で米国との戦争回避の為の日米交渉を続けたが日本の意図を見抜いていたアメリカは強硬で「中国・仏印からの全面撤退と3国同盟の廃棄」を謳う「ハル・ノート」を通告してきた。ここで交渉は完全に決裂1941年12月8日真珠湾への奇襲攻撃で日中戦争は一挙に太平洋戦争、第2次世界大戦に変容したのである。(「ハル・ノート」はアメリカ政府から日本政府への正式な要求文書ではなく、書類の冒頭には「一時的かつ拘束力なし」との文言が記載された単にハル国務長官の覚書に過ぎなかった。アメリカは交渉の余地を残していたのだが、一切の譲歩を嫌う日本の陸軍が最後通牒と決めつけ、思い込んでしまったものである。)
この戦争は開戦から敗戦に至るまで国民には一切相談される事は無く全くの寝耳に水、国会でも議論されることすら無くその重い結果だけを背負わされることになった。
南進政策はイギリス領シンガポール、オランダ領インドネシア、ビルマの占領を打ち出し、占領地では重要国防資源を取得し、軍隊の自活の確保する為「軍政」を行うことが明示された。ベトナム・マレーシア・インドネシア・シンガポール等の資源国は独立は認められず日本領に編入され戦略資源や現地調達を基本とする軍の必要物資の供給地になった。東南アジアを開放し独立させる意図など全く無かったと言ってよい。
日本は何故無謀な対米開戦に踏み切ったのか。1940年時点における米国の実質GDPは1兆340億ドル、日本の実質GDPは1500億ドル程度で、GDPの差は約7倍と計算される。日本と米国の鉄鋼の生産能力の差は約12倍、自動車の生産台数の差は100倍以上、発電量の差は約5倍という状況であった。
日本と米国の体力差は、7倍から10倍と考えられる。海軍を中心とする英米協調派、東条との権力争いに敗れた陸軍の石原莞爾等は近代戦は物量戦・国家総力戦であり、持たざる国・日本は米・英との戦争には勝てないと戦争回避を主張していたが、精神力を無限に高めることで、「持たざる」不利を克服できるという、ある種、狂気に近い考えの持ち主が東条のブレーンにもおり彼らの声が勢いを強め,初戦で勝利を収めインドシナ等で軍需物資を確保し戦争を継続しておれば、ドイツの頑張りで有利に和平交渉が出来るというような夢のような図を描いて開戦に踏み切ったのである。日露戦争に勝てたのは地の利と米・英(特に英国)の援護によるものだが、同じ援護を線香花火のような状態のドイツに期待したのは愚かの一語に尽きる。


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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 

2019年04月14日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり
        …亡国の無能な戦争屋・軍人官僚 

多くの不幸な戦死者を出し国土を荒廃させて日本を滅亡に導いた太平洋戦争、その発端は満州事変であるが、この中国との戦争こそ陸士・海兵の士官学校を卒業した軍人官僚達の短絡的な独断専行の愚行が齎したものである。
満州事変を画策し、それ以降の昭和陸軍をリードしたのは陸軍の課長クラスで作られた『一夕会』グループ、その中心人物が陸軍省軍事課長だった永田鉄山、石原莞爾、武藤、田中の4人であった。東条も彼らの神輿に乗って動いた一人である。
満州国建国の前々年、1931年の満州事変は、日本政府、陸軍大臣、さらには、関東軍司令官等首脳の事前承認なしに、関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた不法な軍事行動であった。石原達は日本の食糧・失業問題から生じた社会不安やその他の政治・経済問題の処方箋として、更には予感される世界戦争に備え鉄鋼・石炭等の地下資源確保には「満蒙開発・満蒙領有」が不可欠と考え満鉄の支援部隊に過ぎなかった関東軍を使って満州の植民地化に走り出したのである。
この不法な軍事行動を補完するため日本の傀儡政権、清朝最後の皇帝(ラスト・エンペラー)愛新覚羅溥儀による満州国が建国された。
国際社会は、こぞって日本の不法な軍事行動と満州国建国を非難し、1933年2月24日の国際連盟総会で、圧倒的多数で満州国の不承認および満州国からの日本軍撤退を決定した。日本はこれを不服とし、総会に参加していた全権大使松岡洋右はその場で国際連盟からの脱退を宣言し、自ら世界の孤児となる道を選ぶこととなった。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという五・一五事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、日・満議定書を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの無知な国民は関東軍のこの暴挙を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎したのである。日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、狂犬のような若手軍事官僚に恐れをなし、石原莞爾と板垣征四郎を軍法会議にかけることすらできず、2.26事件を契機に復活した軍部大臣現役武官制の復活もあって陸軍の暴走を助長した。
満州国は満州族・漢族・朝鮮人・日本人からなる多民族国家であったが、議会はなく実権は「関東軍司令官」兼「駐満大使」兼「関東庁長官」指揮下の日本人が掌握していた。日本は不況対策・失業対策から多数の満蒙開拓団を派遣しその数は27万人に上った。開発が遅れていたアジアの中で満州の都市部は極めて先進的で西洋列強の領事館やデパート・ホテルが軒を連ね満州最大の都市ハルピンは「東方のモスクワ」と呼ばれるような歓楽街となっていたが、開拓団の居留する農村部はインフラが未整備で飲料水不足、非衛生な上、武装した山賊や抗日テロ集団の出没に悩まされるという過酷な状況であった。 
関東軍による満州国経営で最大の問題はアヘン政策である。イギリス東インド会社によるアヘンの輸入で中国全土に広がっていたアヘン中毒禍も1931年迄に四つの国際的な麻薬取締条約が締結され、国民政府の影響の強い地域では根絶状態となっていた。この条約に日本も調印・批准していたが満州国では「アヘン吸引漸減」の美名の下に「アヘンの専売制」を実施、アヘン吸引を実質的に公認したためアヘン患者・アヘン窟が急増した。その利益は膨大で30年代後半には満州国歳入の六分の一に達したと言われている。陸軍特務機関はアヘンの密輸で膨大な機密費を獲得し華北分離工作や内蒙工作更にはアジア各地での工作にも利用されたのである。関東軍は中国各地のアヘン生産地にも侵攻し新たな供給源を確保する一方、商社を通じイランからも輸入するほどであった。満州は関東軍・陸軍の機密費作りの巨大装置であり、当に国家ぐるみの麻薬犯罪を行っていたのである。
この満州の産業・経済政策に大きな役割を果たしたのが安倍首相が信奉する「昭和の妖怪」と称された祖父の岸信介である。当時革新官僚として統制経済を主張し頭角を現したが1936年満州国に転出、翌年には産業部次長、1939年には総務庁次長に昇進、満州国の実質的な最高首脳の一人となり満州経営に辣腕を振るった。計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」の策定・実施と工業化・日本産業(日産)の満州国への誘致だった。同時に当時関東軍参謀長であった東條英機と親交を深め、日産コンツェルンの総帥鮎川義介を筆頭に軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐き参すけ」の1人に数えられた。【東条英機・星野直樹(満州国総務長官)、松岡洋右(南満州鉄道総裁)・岸信介(満州国産業部次長)・鮎川儀介(満州重工業開発社長)】。
この頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。資金源はアヘンである。岸は満州から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している(出wiki)。岸の逃げ足の速さ面目躍如、田中角栄と違う最大のポイントである。
【5カ年計画や満州工業開発が岸の表の顔だったとすれば、裏の顔はアヘン政策だった。岸は「満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった」と言っているが、真っ赤な嘘である。満州で岸の忠実な部下であった大蔵省出身の古海忠行が直接の担当者であった。「満州は岸信介が作ったアヘン中毒の悲惨な実験国家だった」】と2013年5月11日号の週刊朝日が伝えている。
日本は満州に飽き足らず更に領土拡大を図ろうとした。北京を含む華北地方を中国から切り離し満州同様傀儡政権を作ろうと画策した。しかしこれが契機となって国民党と共産党の共闘体制・国共合作の機運が盛り上がり、そこに1937年7月北京市郊外の盧溝橋で発生した日中兵士の衝突事件がきっかけで国共合作が成立、日本は一枚岩となった中国を相手に戦うことになり、華北分離工作は失敗し戦闘は泥沼化し太平洋戦争に嵌まり込んでいくのである。

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戦争責任(9)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)

2019年03月17日 | 国際政治
戦争責任(9)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)

戦死者1600万人、戦傷者2000万人強の犠牲者を出して終わった第一次世界大戦のベルサイユ講和からわずか20年、人類は新たな戦争に踏み出した。近代兵器は人類滅亡をも予感させる原子爆弾まで登場し戦争被害者は世界人口の2.5%・8500万人にまで達したといわれる人類史上最大の殺戮による悲劇となった。

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは厳しい講和条約・ベルサイユ条約により本国領土の一部を失った。これらの領土は、所謂民族自決主義でポーランド・チェコなどの領土に組み込まれたのだが、そこには多数のドイツ系住民が居住し少数民族の悲哀を味わうこととなって、民族紛争の地雷原となった。更に海外領土は日本等戦勝国が分割没収したうえ、巨額の戦争賠償を課せられドイツ国民を苦しめることとなり、この厳しい講和条件がナチス・ファッシズムを生む一因となった。
戦争賠償はドイツを弱体化させる必要があったのと、特に英仏は戦費のためアメリカから膨大な借り入れを行っており、賠償金無しに返済は困難だったことがその背景にある。
第一次世界大戦の戦時景気に沸いたアメリカ経済は終戦により過剰設備に陥り経済が低迷していたところに、バブル化していたアメリカ・ウォール街株式相場の暴落が引き金となって世界恐慌が発生した。当時アメリカは世界最大の債権国であり、世界から資金を引揚げる動きを示したこと、更にアメリカその他の各国が保護貿易主義に走ったことも、世界恐慌に繋がったのである。この世界恐慌による社会的・経済的混乱が偏狭な民族主義や排外主義を唱えるカリスマ的指導者・ファッシストを生み、ファッシズム国家の対外侵略政策が第二次世界戦争を引き起こすことになったのである。
欧州では、選挙で合法的に選ばれた正当なスペインの共和政権をドイツ・ナチスのヒトラーやイタリーのムッソリーニのファッシズム連合のサポートを受けたスペインのファッシスト反乱軍・フランコ将軍が国際義勇軍に支援されたスペイン人民戦線による抵抗にも拘らず圧倒的武力で打倒した。この勝利によりフランスの背後に友軍を得たヒトラーは自信を深め、イタリーと軍事同盟を結び、ソ連と不可侵条約を結んでポーランドへ侵攻を開始した。スペイン戦争で沈黙を守ったフランス・イギリスもドイツへの宣戦を余儀なくされることとなった。イギリス・フランスの傍観姿勢がヒトラーを抑える最後のチャンスを失わせたのである。
ヘミングウェイの有名な小説「誰がために鐘は鳴る」…(ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの主演で映画化もされた)や、マルローの「希望」の舞台となったこのスペイン戦争こそ第2次世界大戦の幕開けであった。

アジアに於ける世界戦争の発端は1931年関東軍が独断で起こした満州事変である。
中国は1911年の孫文等による「辛亥革命」により皇帝溥儀(ふぎ)の退位により清朝が滅び中華民国( 1912年南京で建国宣言) となった。しかし全国各地に軍閥が群雄割拠し1916年から1928年にかけて内戦状態が続いていた。これらの軍閥を平定し国の統一を図るため孫文の革命運動に加わった中国国民党の蒋介石が立ち上がり北伐によって各地の軍閥を次々と平定し、満州軍閥の張作霖を残すのみとなった。この張作霖を日露戦争後に満鉄(南満州鉄道)守備の為設置されていた関東軍が日本政府の許可を得ず独断で爆殺してしまった。この為息子の張学良が日本に対抗するため満州を国民政府に合流させた為、蒋介石の北伐は完了した。

一方日本では浜口内閣がロンドン軍縮会議で海軍の反対を押し切って軍縮条約を結んだが、軍部・右翼等から「天皇の統帥権侵犯である」との批判浴び退陣、次の若槻内閣も中国の主権を尊重し中国内政に干渉しないという幣原外相の協調路線をとっていたが、軍部は軟弱外交と批判し、抗日運動に危機感を募らせていた関東軍が1931年柳条湖で自ら満鉄を爆破し、これを中国軍の仕業だとでっち上げ戦争を始めた。宣戦布告が無かったので、戦争ではなく、満州事変と言われている。満州を占領した関東軍は外国の非難をかわすため1932年満州人による国家、満州国を建国するという形をとった。これに反対した時の犬養首相は軍部により暗殺された(5.15事件)。  この明らかな侵略行動は国際連盟から総批判を浴び日本は撤兵を求められたが軍部に抗し切れない政府はこれを拒否し1933年国際連盟を脱退した。この年中国では蒋介石は抗日の前に中国共産党との内戦に勝つことを優先し日本と停戦協定を結び満州事変は終息した。しかし中国主権への公然たる侵犯は中国での抗日救国運動を呼び起こし、蒋介石は張学良に拘禁され国共合作(毛沢東や周恩来等が率いる共産党への協力)、抗日民族統一闘争を誓わされた。これが中国の運命を変えた西安事件(1936年)であったが、この中国の変化に全く気付かず何等手を打つこともなく戦争を長引かせた陸軍首脳や時の首相・近衛文麿、独走する関東軍首脳の頭の中は空疎そのもの「無能な烏合の衆」であった。そのような情勢の中1937年、盧溝橋一帯での些細な日中両軍の軍事衝突が発端になって日中全面戦争が始まった(日中戦争…宣戦布告無き為日本ではシナ事変と呼んでいた)。日本軍は間もなく首都南京を占領、南京大虐殺を起こして世界の批判を浴びることとなったが当時日本国民には一切知らされず詳細な事実は戦後連合国によって明らかにされた。
この残虐行為が中国国民を団結させ人民やゲリラの激しい抵抗にあい各地で孤立し戦線は停滞・長期戦となった。このシナ事変は日本の真珠湾奇襲と宣戦布告で米英蘭連合国と太平洋戦争を開始した1941年12月蒋介石の重慶政府が日本に宣戦布告したことにより太平洋戦争に引き継がれることとなった。
 

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり
        (亡国の無能な戦争屋・軍人官僚)  へ続く