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追憶の彼方。

思いつくまま、思い出すままに、日々是好日。

戦争責任…(8) 太平洋戦争への道

2019年03月06日 | 国際政治
戦争責任…(8) 太平洋戦争への道

日清・日露戦争は帝国主義列強の代理戦争という色彩が強い。
日清戦争が始まる直前1894年日英通商航海条約を結びこれが引き金となって各国とも治外法権(領事裁判権)を撤廃することに成功した。ロシアの南下を恐れるイギリスが日清戦争に向け日本の背中を押した形である。 日露戦争は独・仏がロシアを、英・米が日本を財政面を含め支援した。日露戦争勝利のご褒美として米英 等との不平等条約改正を認められ実に半世紀に亙る懸案の関税自主権を回復したのである。

大正時代に入って間もなく欧州列強間で第一次世界大戦が始まった。セルビア・イギリス・フランス・ロシア等の連合国とオーストリア・ドイツ・トルコ等の同盟国の戦争である。日英同盟によると、規定範囲はインドから東が対象で、同盟上日本に参戦義務は無かったし日本の中国・太平洋における台頭を懸念するアメリカの制止があったにも拘らず、対外的には日本の参戦には領土的野心は無いと主張して参戦した。しかし実際には大隈重信内閣は、日英同盟の「情誼(おもいやり)」と日本の国際的地位を高める機会であるとし、第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用したのである。元老井上馨は「日本国運の発展にたいする大正新時代の天佑(天の助け)」と言ったと伝えられている。
 日本の真の参戦目的は戦争でアジアに手の回らないドイツの中国その他地域の権益を獲得することであった。  第一次世界大戦が勃発した当初ドイツは中華民国(中国)で山東半島およびその付け根の内陸部から成る膠州(こうしゅう)湾の青島(ちんたお)軍港や、南太平洋に浮かぶ島々(現在のサイパン島、パラオ諸島など)を植民地としていた状況も踏まえての作戦であった。当に3国干渉への報復である。これにより欧州の戦争は世界大戦にまで拡大したのである。
ドイツ軍基地のあった山東半島・青島を占領した日本は、山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなど、過大な二十一カ条の要求を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませが、これに異議を唱えたのはアメリカだけで欧州列強は目の前の戦争に手一杯であった為、日本は其の隙をついて中国大陸侵出の足場を築いたのである。更に太平洋方面でもドイツ領を委任統治領として獲得した。このように日本は第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用し、日本の大陸進出を本格化させることになったのである。
日露戦争でアメリカが日本を支援したのは満州への進出を目論んでいたからであるが、日本が満州を独占したこともあり、アメリカが日本を警戒する動きを強め、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発点となって太平洋戦争へと繋がっていく。
4年間で1千万人の戦死者と2千万人の戦傷者を出す大規模な戦争(日本は千人強)で欧州で長い伝統を持つ三つの王朝が崩壊した。戦勝国ロシアでは長引く戦争の混乱からレーニン・トロッキーによるロシア革命でロマノフ朝が崩壊し、一方同盟国の中心であったドイツで労働者の武装蜂起により皇帝が逃亡した為ホーエンツオレルン朝が、更にドイツ同盟国の名門ハプスブルグ帝国も崩壊した。ロシアはソ連、ドイツはワイマール共和国となった。
日本は第一次世界大戦のパリ講和会議では戦勝国の一員として参加しベルサイユ条約にも調印した。大戦の被害があまりにも大きかった為、この会議でアメリカ大統領ウイルソンの提唱で世界最初の国際平和維持機構=国際連盟の設立が決まり、常任理事国は英・仏・伊・日本の4か国と決まった。米国はモンロー宣言以来の孤立主義で大統領の強い要望にも拘らず議会の同意が得られず非加入となった。米・独・ソ連の有力国不参加に加え 侵略に対する制裁のための軍事力を持たない為、紛争の解決が困難である、更に総会決議は全会一致が原則で、迅速かつ有効な決議を行うことが困難というような問題点もあったが、国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは大きな成果であった。
帝国主義の動きをあらわにする日本の勢いを削ぐため軍縮と極東問題を議題とするワシントン会議やロンドン海軍軍縮会議で日本に圧力をかけ軍縮を約束させ行動を規制しようとした。太平洋諸島での基地現状維持を約束する4か国条約のほか、主力艦クラスの軍艦保有量を制限する条約等である。更に米国は追い打ちをかけ、中国の主権尊重・領土保全を謳った条約の締結(9か国条約)を呼びかけ日本も孤立を恐れ、日本は山東省の権益を返還せざるを得なくなったのである。
世界恐慌後各国が軍拡に走りだし日本の軍部が米英に反発を強める原因となった。
日本は国際連盟で人種的差別撤廃を提案したが、アメリカは他国を上回る勢いで強硬に反対し、国内でも、日本人移民が多いカリフォルニア州などを中心に広まった黄色人種に対する人種差別を背景に日本に対する脅威論が広まった。これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果、排日移民法によって日本からアメリカへの移民が禁止された。
これらのアメリカ当局による人種差別も背景にした敵対的行動に対して、日本でも反米感情が高まり日米関係は悪化の一途を辿ることとなった。アメリカによるイギリスとの分離工作もあって、ドイツ、イタリアへの接近、その後の第二次世界大戦における米英両国との衝突に繫がって行くことになった。
日英間の関係を分断すると同時に、アジア太平洋地域と中華民国における自国の権益を守護するべくアメリカ政府が提唱した「太平洋における領土と権益の相互尊重」と、「諸島における非軍事基地化」を取り決めた「四カ国条約」が、1921年(大正10年)に日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの間で締結され、アメリカ政府の要求通りに日英同盟は発展的に解消された。
日露戦争後には友邦となっていた帝政ロシアがその後の単独講和を経てロシア革命によって共産化したことも重なり(ソビエト連邦の成立)、日本は実質的な同盟国を有さない状態となった。
日本は日清・日露戦争、第一次世界大戦でも国土の直接の戦火を免れた。既に工業化を進めていた日本は連合国から軍需品の注文で軍需景気に沸き海運・造船電・電力・銀行・鉄鋼業が基盤を確立させた。大戦による船舶不足で海運業は世界3位まで急成長し、造船技術を伸ばした結果造船量も世界3位に躍進、農業国から工業国に変身を遂げた。大戦景気は成金を生み、人口の都市集中化が進み、急激なインフレで貧富の格差が広がり社会生活が一変した。戦争終結後輸出の急減し株式暴落が引き金となって戦後恐慌が始まり多くの企業が倒産、失業者の増加が社会不安を煽った。その3年後には関東大震災による震災恐慌が引き金となって金融恐慌が発生30数行の銀行が取り付け騒ぎ等で倒産した。
この金融恐慌対策に中国に強硬姿勢に臨む軍部の意向を酌む長州陸軍出身の田中義一内閣が選ばれモラトリアム発動で鎮静化させたが、太平洋戦争に繋がる中国出兵に大きく舵を切ることになったのである。

戦争責任(8)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)へ

戦争責任...(7)

2019年03月03日 | 国際政治
戦争責任…(7) 太平洋戦争への道
歴史に「もしも」はないが,〔吉田・鳩山・石橋・岸・池田・佐藤・田中〕という戦後総理の系譜の中で石橋(湛山)が健康で長期政権を維持することができ、政権を田中(角栄)に繋いでいたら日本は官僚政治、対米従属路線を離れアジアで独自の道を歩んでいた可能性が強い。石橋は退任後も岸の制止を振り切って訪中し周恩来に日中米ソ平和同盟結成を呼び掛け中国の信頼を得て彼等の門戸を開く努力を重ねていた。歴史的な日中国交回復を電撃的に果たした田中は訪中直前に石橋を見舞って自らの意思を伝えているが其の地ならしをした人物こそ石橋であった。
石橋湛山は大正・昭和、軍部が猛威を振るった時代、身の危険をも顧みず東洋経済新報社で言論の自由を唱え,言論の自由こそ「うっ積すべき社会の不満を排せつせしめ、その爆発を防ぐ唯一の安全弁」であるとし、様々な報道がなされることで国民の批判能力を養い、「見解を偏らしめず、均衡を得た世論」をつくる事が出来ると訴えた。
大正10年(1921年)社説…「一切を棄(す)つるの覚悟」では「朝鮮・台湾・樺太・満州と言うごときわずかばかりの土地を棄つる事により広大なる支那の全土をわが友とし、進んで東洋の全体,否世界の弱小国全体をわが道徳的支持者とすることはいかばかりの利益であるか計り知れない」。「防衛戦は日本海で充分である」とも主張した。
更に(同)社説「大日本主義の幻想」で軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱した。そして「いかなる民族といえども、他民族の属国たるを愉快とするごとき事実は古来ほとんどない」と植民地の人々の心情に対する日本人の想像力の欠如も指摘していたのである。
石橋湛山こそ当に大正デモクラシーの旗手であった。
資源が全くなく国力の貧弱な日本の生きる道は自ずから明白であったが日清戦争・日露戦争に勝利したことが身分不相応な大国主義・帝国主義に走らせた。
明治維新政府の最初の外交問題は征韓論であったことは極めて象徴的、、吉田松陰の流れをくむ薩長藩閥政治家の強国・拡張主義の面目躍如である。
1890年の第1回帝国議会の施政方針演説で山県首相は「主権線-日本」だけでなく「利益線―朝鮮」も守っていくと述べその為の軍拡予算を成立させ1894年の日清戦争に突入した。
日清戦争で勝利した日本は①「朝鮮の独立」②「遼東半島・台湾・澎湖諸島(台湾・中国間の島々)」を取得,更に③賠償金3億千万円に加え3国干渉による遼東半島返還見返りとして5千万円を得、④日清通商航海条約を欧米と同様の不平等な内容で締結させた。賠償金の6割強が海軍拡張を中心とする軍拡に充てられ、更に受け取った金貨を基に金本位制を確立し、資金の一部で軍備増強および産業資材用鉄鋼の生産増大をはかるため,中国湖北省大冶鉄鉱山の鉄鉱石の長期契約を締結し、背後に筑豊炭田を抱える八幡に官営製鉄所を建設した。
当時イギリス産業革命に遅れること1世紀、渋沢栄一が大阪で官営模範工場の5倍の規模で蒸気機関を使った機械による大量生産システムの大阪紡績会社(東洋紡の前身)を設立し紡績業を日本の産業革命の中核に据えた。
生糸の生産でも富岡製糸所を中心に産業革命が起こり生糸の輸出は中国を抜いて世界一位となった。このような光の陰に15時間労働という過酷な労働と低賃金の女工哀史の現実もあった。日本初めてのストライキは女工によって起こされ、幸徳秋水による社会主義政党が結成されたが、これを危険視した山県(2次)内閣が治安警察法を適用しすぐに解散させてしまった。幸徳秋水は社会主義を忌み嫌う山県の後継者桂太郎内閣の下、大逆事件で無実にも関わらず十分な取り調べもなく絞首刑に処せられた。
前後するが日露戦争については「戦争責任…(5)」で記述した通りである。
アメリカ大統領ルーズベルトの調停でポーツマス条約が締結されたがそれ以前に日本は大国米英と交渉し韓国を支配することを認めさせ、周辺諸国から異論を出ないようにしたうえで韓国に軍事的圧力をかけ幾つもの条約を結ばせ、1910年の韓国併合条約で植民地化を実現した。これ以降韓国は日本の領土の一地方として「朝鮮」と呼ばれることとなった。日露戦争勝利後韓国統監に就任した伊藤博文は抗日運動高まりの中、1909年ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根に暗殺された。
現在日韓の間に棘の様に突き刺さった竹島領有権問題はこの植民地化の一環なのかどうかという点で揉めており、根底に根深い国民感情が横たわり解決は困難を極めている。

明治時代最後の1911年には半世紀に亙り懸案となっていた米英等との不平等条約改正を認めさせ関税自主権を回復し、大正時代に入った。
大正時代は第一次世界大戦による欧州の軍需の盛り上がりにより、日本経済は非常に潤い、農業国から工業国へと脱皮し中国・太平洋への進出を強め、アメリカと同様債権国へ転換した。しかし、第一次世界大戦が終結してヨーロッパの軍需が冷え込むと外需に依存していた日本は、1920年以後には戦後恐慌に陥った。1923年の関東大震災なども重なり銀行の信用構造は大きく揺らぎ、1927年に昭和金融恐慌が発生した。さらに1930年、民政党を中心とする浜口内閣が実行した経済政策(金解禁)が世界恐慌と重なることで頓挫し、不況は悪化して昭和恐慌と呼ばれた。その後政権が政友会を中心とする犬養内閣に戻り、高橋是清蔵相の下、金解禁を再禁止し、積極的な財政政策により世界恐慌による混乱から日本経済を一足早く脱出させた。
日清・日露・第一次世界大戦で日本は経済立国として躍進したがこの大国主義への道が太平洋戦争の悲劇に繋がったのである。

戦争責任…(6) 太平洋戦争への道

2018年11月04日 | 国際政治
戦争責任…(6) 太平洋戦争 への道
 
日露戦争では陸軍・海軍ともに正確な戦史を作って居たが、そんな物は無かったことにして、都合の良いところだけを抜き出し官製の戦史を作成して一般に公表したのである。作家・司馬遼太郎は、お蔵に眠っていた戦史の事など露知らず「坂の上の雲」を書いたので、旅順攻囲戦で日本軍が膨大な戦死者(戦力5万1千に対し戦死1万5千強)を出したのは第3軍司令官の乃木と参謀長の伊地知幸介の無為無策が原因であるとする考えに基づいて小説を発表してしまった。 この小説によって司馬の所謂「愚将論」が世間一般に定着していたが、終戦から30年後宮中から膨大な戦史記録が防衛省に払い下げられ正確な戦史が明らかになったことによって,司馬史観は誤解偏見によるものであることが判明した。幕末維新史等と同じで、歴史は屡々権力に都合の良い様に捏造されるという典型である。
戦死者はロシア3万1千人に対し日本8万4千人強、病死者もロシアの倍を超える2万7千人と大きな損害を出したが,その原因は一つには「砲弾の不足(銃剣と精神力による肉弾戦…人間の武器化)」、二つ目には武功を焦る海軍の独断(当初旅順艦隊殲滅は海軍が単独で行うとして陸軍の参戦を拒否し続けた)、更には「大本営の状況判断の欠如と戦略不足、現地トップとの意見不一致」が挙げられる。
有名な203高地攻略はロシアの旅順艦隊殲滅の海軍・大本営要請を当初は現地の満州軍総司令部幹部「大山・児玉・乃木」は反対・拒否していたが御前会議迄開いての圧力に抗しきれず実行に踏み切った。しかしこの時点でロシアの旅順艦隊は壊滅状態で戦略的な意味合いは無くなっていたのである。本争奪戦では、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少したし、乃木大将の次男も戦死している。
官製の連戦連勝報道で国論は沸き立ったが、内実は国力を使い果たし、これ以上の戦争継続は困難、一刻も早く講和を受諾したいと言うのが本音であった。開戦時は日本軍は若手の精鋭、ロシアは俄か仕立ての老兵であったが講和会議の頃にはロシアが精鋭部隊を派遣し陣容が整ったのに対し日本側は老兵のみしか残って居らず、強硬な主戦論者であった満州軍総司令部の児玉源太郎大将が最も熱心な講和主張論者となっていたのである。もしロシアが革命に至る政情不安が無く、アメリカのタイムリーな講和の申し入れも無く戦争が継続していれば結果はどうなっていたか、軍当局者が一番知っていたことになる。
華々しい連戦連勝の管制報道しか知らされていない国民が賠償金も無い講和条件に怒り狂い日比谷焼き討ち事件に迄発展したのは蓋し当然であるが、戦争の実態は全く違っていたのである。
政府や軍は何故事実を隠したのか。半藤一利氏の著書「あの戦争と日本人」によれば理由の一つはロシアが何時復讐戦に来るか分からないという恐怖、特にロシアにとってこれは極東の一局地戦に過ぎないしロシア軍を徹底的に叩き潰した訳ではない。加えて何よりも戦勝に沸き立つ国民、我慢を強いた国民に水を差すようなことは出来ない、国民的熱狂が事実隠蔽を後押ししたことになる。
更に日露戦争を戦った陸海軍人・官僚・文官の叙勲である。陸軍65人、海軍35人、文官31人全員が戦功により貴族になっている。山縣・伊藤(博)が公爵、井上馨・松方正義・野津道貫、桂太郎が侯爵、東郷・乃木が二階級特進で伯爵、第3軍参謀長伊地知が男爵と言った具合。
戦病死者11万人の上に成り立つ武功叙勲、偉くなるためには事実を隠さざるを得なかった。栄光と悲惨の幕開け、これが明治維新の結果である。
日露戦争はロシアとの全面戦争ではなく、極東という辺境の局地戦に勝利したに過ぎない。
勝因は1)地の利…武器・食料等の補給、兵員増派等の差 2)英国のサポート(仏牽制、バルチック艦隊の疲弊) 3)米国のタイムリーな講和 4)前線部隊の活躍 等が挙げられる。
英国や米国のサポートが無ければ勝ち目等なかった筈である。
太平洋戦争は大国のサポートも無く、その列強米英を相手に戦ったのである。日露戦争には教訓とすべき点が多々あった筈であるが勝利の神話のみが語り継がれた。この戦争を克明に分析すればあの愚かな太平洋戦争など出来ない筈である。

日露戦争の結果はアジア人達を奮い立たせた。インドのガンジーが解放への戦いに民衆を立ち上がらせたのはポーツマス講和会議の翌年であり、中国の孫文始め後の辛亥革命の担い手の多くが日本留学生として滞在し清朝を打倒して新中国建設に燃えていた。日本人の中には彼等を熱心に支援する人もいたらしいが、日本政府は突然中国人排斥の愚挙に出たのである。その後孫文が臨時大総統となって中華民国政府が出来たが当時の対応を誤って居なければ,その後の日中関係は大きく変わっていた可能性が強い。
もう一つはベトナムである。フランスの植民地であったベトナムはトンキン湾に寄港した日本海海戦に望むロシアのバルチック艦隊を見て驚愕したが日本がこれを打ち破ったと知って大きなインパクトを受けた。その前から密かに独立運動を画策し維新会(後の越南光復会)を作って居たが、その中心人物が来日し、日本の助力を期待して多くのベトナム人を留学生として呼び寄せた。武器より人材育成が先決との助言をえて、2百人を超える留学生が勉学に励んでいたという。ところが1907年日仏協約を結んだ政府は仏政府の要請でベトナム人を追放してしまった。
ロシアに勝利し折角アジアの中心的な存在として米欧先進国と対等に交渉できる立場に成ったにも拘らず逆にアジア人の独立心を叩き潰す存在になってしまったのである。
福沢諭吉も盛んに唱えた「脱亜入欧」、アジア蔑視の考えが根底にあり、アジア人の尊敬を中々克ち得ない理由もこの辺にある様な気がする。

日露戦争に勝利した日本は今後「大日本主義」か「小日本主義」で行くかの進路の選択を求められた。
資源が乏しい国力貧弱な日本の活きる道は明白であったが、思わぬ戦勝が日本人を狂わせ身分不相応な大国主義を選択してしまった。神国日本の皇国史観に我を忘れたとしか言いようがない選択である。
日露戦争を厳しく検証すればそのような選択は無かった筈であるが戦争責任者が叙勲の甘い汁に酔い痴れて後は野となれ山となれになってしまったのである。

昭和天皇の末弟で歴史学者であった三笠宮崇仁氏は陸軍大学時代に受けた戦史講義の感想として、「ロシアが降伏したのは軍事的に敗れたのではなく、国内で政治的混乱が起こったからでした。それを日本軍の力が強かったから相手が負けたとだと錯覚したのです。そしてその錯覚が昭和の時代まで続いたのですから恐ろしい事でした。」と述べている。同じ講義を受けた陸軍大学生が太平洋戦争のブレーキ役どころか推進者になってしまったのである。



戦争責任…(7) 太平洋戦争 に続く

戦争責任…(5)日露戦争と太平洋戦争への道

2018年10月20日 | 国際政治
戦争責任…(5)日露戦争と太平洋戦争への道
伊藤博文・山縣有朋は第一線を退いたが、元老として天皇に対し内閣総理大臣の奏薦(推薦)等を行い国政に院政を敷いた。
彼等が最初に選んだのが山縣の下で軍制を学び陸軍次官や台湾総督を歴任した山縣子飼いの桂太郎である(1901年(明治34)5月第一次桂内閣)。
桂内閣の最大の事跡は日露戦争であった。1894年(明治27年)日清戦争が起こり翌年これに勝利したが(仏・独・ロシアの列強3国)の干渉を受け清国との講和条約で勝ち取った遼東半島(大連・旅順がある)の放棄を余儀なくされたうえ、この日本の譲歩に乗じてロシアは遼東半島を占拠し仏・独・英の列強は強引に中国各地を租借し中国分割に乗り出したのである。このロシアの暴挙に日本の国論は「租税(地租)アップも止む無し,政争は回避等々」一挙に国家主義思想に傾き、ロシア打倒と強兵・軍備増強の機運が一挙に高まった。これに拍車をかけ国民を熱狂させたのが「東大7教授事件」である。
戸水寛人・寺尾亨・金井延・富井政章・小野塚喜平次(後の東大総長)・高橋作衛・中村進午(学習院)の7人が桂太郎首相を訪れ「ロシアの満州からの完全撤退の為、断固開戦すべし」という極めて強硬な路線の選択を迫るものであった。
伊藤博文元老は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と語り、又桂太郎首相は「学者の本分を守り政治に口出しして貰いたくない、国民を煽らないで欲しい」と要請したが、彼等はこれに耳を傾けず、筆を揃えて主戦論だった新聞にこれを提供・掲載させ国民を煽った。列強の動きや国家財政の詳しい状況も知らずロシアの強硬な態度だけを報道で知らされていた国民世論が打倒ロシアで一挙に燃え上がったのである。

日清戦争が終わった明治28年の戦時下の総歳出が9千160万円だったのに対し翌29年は平和裡にも拘らず二億円強に跳ね上がっている。(当時ロシアは世界五大強国の一つでその歳出額は20億円、銑鉄生産量…日本‐2万トン、ロシア‐2百94万トンで日本の百倍強である。)
日本国中に蔓延した「恐ロ病」によって軍部は国家予算の半分を使って軍備増強を行い陸軍は7個師団から13個師団に増強され、海軍も日清戦争開戦時に比べ戦艦総トン数を2.5倍に増強した。その財源は増税と日清戦争の賠償金が当てられ国民は重税に大変な苦しみを味わった。
富国強兵ではなく、貧国強兵・増税強兵が実態で、明治の栄光など上流階級だけの話、国民生活は悲惨極まりなかった。明治29年、24歳の若さで結核で亡くなった樋口一葉の「赤貧洗うが如し」と言われた極貧ぶりが「樋口一葉日記」に記されている。

この様な状況を勘案し伊藤博文は慎重で、話し合いでの解決を主張、ロシアの満州支配を認め日本の韓国支配を認めさせれば良いという「日露協商論、満州交換論」を唱えた。
昭和と異なり明治の軍部や政府は多少冷静な判断力があった。国力・戦力から言って戦争はすべきでない、妥協点があるのではないか と日露交渉を進めていたが其の時のロシアの要求は「朝鮮半島、満州から日本軍は手を曳け」というもので、この情報が新聞に掲載され日本国民の戦争意識に火を点け政府弱腰論が蔓延した。
此処に至って桂首相や元老山縣は伊藤の話には耳を貸さず、対ロ開戦不可避として対外的な準備を開始した。「日英同盟」の締結である(1902年)。二等国日本としては一等国英国との帝国主義軍事同盟だけが頼りの対露開戦であった。
新たな艦船の購入や戦争の為の外債発行も英国頼り、とりわけ同盟条約に盛られたロシアに他国が協力参戦した場合は英国が日本を援助参戦するという条項によりロシアの同盟国フランスを完全に抑止することが出来たのは大きかった。これによりロシアの黒海艦隊は動きが取れず、バルチック艦隊も英国の基地回避を余儀なくされた為、大きく戦力が削がれることとなって、日本海海戦では日本に極めて有利に作用した。英国が日本に期待したのはロシアの南下政策阻止と英国利権である中国等極東に芽生えつつあった反帝国主義運動に対する番犬としての役割である。
1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍の奇襲攻撃に始まった日露戦争は総額17億2千万円(内8億は外債)の戦費と百8万9千人の出兵、8万4千4百人の戦死者、14万人の戦傷を出して一応勝利はしたが惨憺たる結果に終わった。陸軍には戦争継続の余力は全く無くなっていた。
日本海海戦での日本大勝により外務大臣小村寿太郎から要請を受け、1905年6月6日に米国セオドア・ルーズベルト大統領による日本・ロシア両国に対する講和勧告が行われ、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。日本軍は和平交渉の進む中、7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。

連戦連勝という官製報道ににも拘らず実態は上記の通りで日本には戦争継続の余力は殆ど無くなっていた。ロシアも国内に革命の大きな動きという大問題を抱えていたがロシア皇帝は表面上は強気で「土地の割譲、賠償金支払いは一切応じない」としていた。
この様な両国内情を背景に米国仲介によるポーツマス講和会議は「関東州(満州)租借地の譲渡、南満州鉄道の譲渡、日本による韓国「保護国化」という所期の目的と樺太の南半分を日本に割譲することで決着した。 大正から昭和初期に懸けこの前半の権益保持・拡大に日本は悪戦苦闘することになる。
一方、莫大な犠牲者、重税と生活苦に耐えてきた国民が連戦連勝の報を受け描いてきた巨額の賠償金取得という講和の夢が打ち砕かれ、講和反対「日比谷焼き討ち事件」…内務大臣官邸・外務省・国民新聞社・キリスト教会等々…となって国民の怒りが爆発した。    「10万の英霊と20億の国費」を投じて得た満州、これがスローガンとなり太平洋戦争に繋がっていくことになる。
日露戦争開戦を煽った東大教授7人の内、シベリア占領を強硬に主張しバイカル博士の異名をとった戸水は戦争末期又もや懲りずに「賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲」を講和条件とする様に主張、宮内省にポーツマス条約を拒否すべしとの上奏文を提出した為、東大総長の解任迄発展する「戸水事件」を引き起こした。これが日比谷焼き討ち事件の引き金になったことは間違いない。
東大・京大の教授達の言論弾圧反対という抗議で復職したが実態を調べもしないお気楽な誇大妄想狂であったことは間違いない。戸水はその後政界に進出、更に経済界に転じ詐欺等の事件を犯している。
戦争責任は政治家・軍人だけではなかったことを表しているが、太平洋戦争でも東条や近衛、更には若手将校を煽り洗脳した東大教授が居た。戦争責任は何も問われ無かったが極東国際軍事裁判ではなく日本人による戦争責任裁判が行われて居れば東条と同程度の重罰を科せられるような狂的な扇動行為を行った人物がいたのである(次回)。


戦争責任…(6) 太平洋戦争 へ

戦争責任…(5)日本を滅亡に導いた山縣有朋

2018年10月02日 | 国際政治
大正デモクラシーのオピニオンリーダーであった石橋湛山(戦後吉田内閣大蔵大臣、自民党総理・総裁)は 大正11年山縣有朋が亡くなったとき、「死もまた社会奉仕」という痛烈な文章を書き、山縣の国葬にはその不人気を反映し一般国民の参列は殆んど無く,まるで軍隊葬と揶揄される程閑散としていた。片や同時期に行われた大隈重信の葬儀には30万人が参列したのとは大違いであったとの新聞報道が残されている。

山縣は軍人勅諭の前文で天皇が軍の統帥権を保持する事を明示しており、大日本帝国憲法で「天皇は陸海軍を統帥す」と法律でこれを明確に規定した。
更に政党の力が軍部に及ぶことを排除し、軍部が政治介入を容易にするため「軍部大臣武官制」を、後にはこれをより強化した「軍部大臣現役武官制」を導入した。これによって軍部の意向にそわない組閣の阻止が可能となり、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことができるシステムが出来上がった。 山縣のこの施策により軍部の政治的優位が確立し、軍部が政治介入することが可能となり、軍拡、戦争への道をひた走ることになる。
山縣の死後僅か24年で多数の国民を死に至らしめ日本を焦土と化して敗戦に導いたのは山縣の衣鉢を継ぐ無能且つ自己保身の強い軍人達であり、当然長州人山縣の責任も問われなければならない。

更に山縣が残した悪行の一つとして「教育勅語」の制定がある。
1879年(明治12)天皇の名前を使って「教学聖旨」が示され教育の基本は仁義忠孝を中心に据えるべきで、特に子供は白紙の状態の時に脳髄に感覚せしめ培養する必要があると述べられている。要は民権思想に染まり民主主義や基本的人権に目覚める前に「仁義忠孝」を刷り込んでしまえ…謂わば洗脳・マインドコントロールである。
これに基づき翌年「教育勅語」が発布された。
本文 「朕惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實ニ此ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己(こ)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。
是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ、咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」……(読みやすいように句読点フリガナを付した)

70有余年前、幼稚園で唱和させられた315文字から成るこの文章、未だにあらかた暗唱出来てしまう この幼児頭脳への刷り込みの恐ろしさ、国民の多くが薩長幕藩政治家によってマインドコントロールされていたことになる。
内容的に3つの部分から成って居り、前段では,肇国(建国)以来歴代天皇が道徳の形成に努め,国民が忠義,孝行の道において一致してきたことを「国体ノ精華」であるとし,教育の根源をこの点においている。要はあらゆる場面で行われた国家神道の宣伝活動である。
次いで「父母ニ孝」「兄弟ニ友」「夫婦相和」……「学ヲ修メ業ヲ習ヒ」など「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」すべき日本臣民の体得すべき徳目を列挙し,最後にこのような国体観,臣民観が時間と空間をこえて妥当する絶対の真理であると宣言し,天皇と臣民が一体となってその実現に邁進すべきことを求めている。
特に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」、つまり戦争になったら天皇のために命をささげ、天皇に「忠義」をつくすことが天皇家祖先の遺訓であるから 臣民はこれに従えと要求されたのである。 「忠を離れて孝なく、父祖に孝ならんと欲すれば、天皇に忠ならざるをえない」とも教えられていた。「父母に孝等の徳目」は「天皇に対する忠義」の枕詞に過ぎないように見える。
即ち勅語の道徳項目は、天皇を頂点とする身分序列の社会の道徳で、臣民は天皇に忠義を誓う、臣民の間でも目下は目上に従え式の身分ルールで固められていて、人権や平等、命の大切さ等一切無視されているのである。

政府は教育勅語を全国の学校に配布し、国旗(日の丸)掲揚と天皇・皇后の写真拝礼、国歌斉唱、勅語奉読を学校儀式として強制し国民に国体思想を植え付けるための道具としたのだ 
以降、修身教育は,この勅語の趣旨に基づくべきことが決定された。検定教科書として発行された修身教科書は,教育勅語の趣旨である忠義・孝悌・友愛・仁慈等を徳目としており込むとともに,軍国主義強化の為、忠の面が特に強調された

山縣有朋は国民は天皇の臣民であり「天皇のために生き、死ぬべきだ」という考えのもとに 軍人には軍人勅諭を一般国民には教育勅語を作り ここに侵略主義・拡張主義の精神的基盤が整ったのである。

(「国体の清華」とは上に万世一系の天皇を戴くこと世界に例がないだけでなく、下に誠心で忠義を誓う臣民がいる。君臣その心をひとつにして3000年の歴史を保ってきた。このようなことは、どこの国の歴史をひも解いても他には見当たらない。わが国は世界に比べるもののない美しい国体である…位の意味であろうか…当時文部省が作成した国体の本義より)

後世に残した影響度から言えば民権政治に寛容だった伊藤博文より山縣有朋の方が遥かに大きく、その指導・影響を受けた人間が大正・昭和にかけて国家を動かし猛威を奮った。伊藤の考えは西園寺公望に山縣のは桂太郎に引き継がれた。桂内閣が誕生し日露戦争に踏み込んで太平洋戦争に繋がっていくことになる。


戦争責任…(5)日露戦争と太平洋戦争への道