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高城城調査

2023年07月27日 03時54分00秒 | スーパーカブ
高城城跡に行ってきました。
クロスカブでのショートツーリングです。
高城城は赤尾津城とも呼ばれていました。




赤尾津城は小笠原光貞によって築かれた城です。その後、光貞は赤尾津氏を称して以降、赤尾津氏の居城となりました。
天文元年(1532)、由利郡へ伸張を図った大曲城の前田又左衛門道信は赤尾津・羽川氏らと戦ったが、流矢に当たって討死します。前田氏はやがて戸沢氏の支援を受け、元亀3年(1572)に赤尾津左衛門を、天正2年(1574)には羽川二郎を討ち取りました。
そして天正7年(1579)、今度は逆に赤尾津二郎・羽川金剛丸らが由利郡の打越・岩谷・石沢・潟保ら諸氏と共に大曲城を攻撃しました。
この時に前田氏の当主である前田薩摩守は上洛中であり、弟の大曲五郎は討死、大曲城を落城させました。




天正16年(1588)頃、赤尾津氏の二男である赤尾津九郎は羽川新館の羽川小太郎義稙を欺いて羽川新館を奪い、羽川主膳正九郎を名乗ります。
また同年、由利十二頭の諸氏は、同じく十二頭の一人である矢島城主・矢島満安を攻め、これを西馬音内城に追いやる事に成功しています。

慶長5年(1600)、赤尾津氏は関ヶ原合戦の際において、徳川家康に味方した最上義光に従い山形まで出陣したが、無断で帰国したために所領没収となりました。
その後慶長8年(1603)、由利郡は最上氏に与えられ、赤尾津城は最上氏の重臣である楯岡満茂が湯沢城から移って入城したが、慶長17年(1612)に本荘城へ居城を移して赤尾津城は廃城になったようです。
1602年(慶長7年)に由利郡は最上領となり、湯沢城主・楯岡満茂が城主として入り、赤尾津満茂を名乗りますが、1612年(慶長17年)には本荘城を築いて居城を移したため、その頃に廃城となったと思われます。




現在城址は「高城城址公園」となっていますが、遺構はなく、曲輪跡を確認できるのみです。また1623年(元和9年)に岩城吉隆が入封した際には西麓に亀田陣屋が築かれました。

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