自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

鮎川フットパスコース ③鳴瀬舘

2018年12月02日 11時30分50秒 | 

立井地の馬頭観音から歩く事900メートルで鳴瀬館につきます。鮎川地区南福田の小高い丘です。

 

 鳴瀬館(なるせだて)は、文治6年(1189)9月、由利八郎維平(ゆりへいはちろうこれひら)が源頼朝の恩命(情けあるありがたいお言葉)をいただき、旧領である由利に帰った時に築城(城を作ること)したと言われています。(つまり由利地方の地頭に命ぜられたのです)

 由利に帰った維平は、家来である叔父の根代大毅惟代大毅維晟(ねじろだいきこれあき)に、若い頃、自分をうらぎった真坂次郎(まさかじろう)が住む、現在の鳥海地区笹子(じねご)の天神山(てんじんさん)をせめさせ、滅ぼしました。

 そして維平は、自分の住む鳴瀨台をを中心領地にして12カ所に支城を造り由利の一族や家来を住まわせて、領地を治めました。 (新屋や雄和、仁賀保も含む)つまり、鎌倉時代は、現在の由利本荘の中心は由利町鮎川の南福田だったのです!現在館跡は、畑になっています。

 しかし、維平の子の維久(これひさ)は、和田義盛の乱に加担したと疑いをかけられ、26年間の居城地の由利を去り、山形で静かに余生を送り1214年亡くなりました。
 それから78年後、維久のひ孫である仲八郎政春が、ずーと願っていた由利復帰が許され、西目の浜舘に21年間居城していましたが、栗山城主の鳥海弥三郎との争乱で城を焼かれ、正和元年(1312)ふたたびこの鳴沢舘(鳴瀬舘)に居城したのでした。

*明治維新の時に大活躍し、「五箇条のご誓文」の草案を作り、初代東京府の知事を務めた由利公正という人物がいますが、この人が維衡や維久の血をひく由利氏の子孫です。

ここから南福田遺跡に向かいます!



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ハンディスキャナを導入

2018年12月02日 07時47分13秒 | Weblog
本荘市史などをスキャンしたいと思いハンディスキャナを導入しました。

アイリスオーヤマの物で1791円です。

このように使います。

OCRもそこそこである!



使えるかも!
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