立井地の馬頭観音から歩く事900メートルで鳴瀬館につきます。鮎川地区南福田の小高い丘です。
鳴瀬館(なるせだて)は、文治6年(1189)9月、由利八郎維平(ゆりへいはちろうこれひら)が源頼朝の恩命(情けあるありがたいお言葉)をいただき、旧領である由利に帰った時に築城(城を作ること)したと言われています。(つまり由利地方の地頭に命ぜられたのです)
由利に帰った維平は、家来である叔父の根代大毅惟代大毅維晟(ねじろだいきこれあき)に、若い頃、自分をうらぎった真坂次郎(まさかじろう)が住む、現在の鳥海地区笹子(じねご)の天神山(てんじんさん)をせめさせ、滅ぼしました。
そして維平は、自分の住む鳴瀨台をを中心領地にして12カ所に支城を造り由利の一族や家来を住まわせて、領地を治めました。 (新屋や雄和、仁賀保も含む)つまり、鎌倉時代は、現在の由利本荘の中心は由利町鮎川の南福田だったのです!現在館跡は、畑になっています。
しかし、維平の子の維久(これひさ)は、和田義盛の乱に加担したと疑いをかけられ、26年間の居城地の由利を去り、山形で静かに余生を送り1214年亡くなりました。
それから78年後、維久のひ孫である仲八郎政春が、ずーと願っていた由利復帰が許され、西目の浜舘に21年間居城していましたが、栗山城主の鳥海弥三郎との争乱で城を焼かれ、正和元年(1312)ふたたびこの鳴沢舘(鳴瀬舘)に居城したのでした。
*明治維新の時に大活躍し、「五箇条のご誓文」の草案を作り、初代東京府の知事を務めた由利公正という人物がいますが、この人が維衡や維久の血をひく由利氏の子孫です。
ここから南福田遺跡に向かいます!
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