この前久しぶりに大沢在昌さんの新宿鮫シリーズの最新刊「黒石」を読んだところですが、本書はちょっと前の作品です。
最寄り駅の書店で平積みされていて、帯をみるとちょっと変わった主人公のプロフィールだったので手に取ってみました。
小説なのでネタバレにならないよう、感じたところを記してみると、大沢作品の中でもなかなかの力作の部類だと思いました。
文庫本でも700ページを越えるボリュームで、正直冗長に感じるところもありましたが、ストーリーにはしっかりと一本芯が通っています。それは、主人公のキャラクタ設定によるところも大きいですね。このあたり、タイプは違いますが、大沢さんの代表作「新宿鮫」シリーズの “初期のころの鮫島刑事” のテイストに通ずるとことがあるように感じました。
“謎解き”的な要素についていえば、ラスト近くになっていきなり急転直下大団円に向かうとか、二重三重にどんでん返しが繰り返されるといった“小手先”の細工には頼らず、冒頭からラストまでのストーリーの進展そのものが “謎解き” の誘導路になっていました。
「ライアー」というタイトルもシンプルですが、作品の “軸” を暗示していて秀逸です。
この作品なら、映画化されても十分エンターテインメント作品として楽しめそうです。
まず悩むのは、ヒロイン役。さあ誰に・・・、これは少々ハードルが高いですね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目についた本です。
“脳科学”関係の本は久しぶりです。従来の脳科学の成果に対し冷静な評価を加えた論考のようで、興味をもって手に取ってみました。
もちろん、私はこういった分野は全くのど素人なので初めて知ることばかりでしたが、それらの中から特に私の関心を惹いたものをいくつか覚えとして書き留めておきます。
まずは、「第2章 まちがえるから役に立つ」の章で紹介された脳研究の現状について。
ここでは、ニューロンの不安定な発火のメカニズムとその影響(効果)について解説しています。
(p75より引用) 脳の信号伝達は不確定で確率的であるため、必ずまちがいも起こるが、多くのまちがいの中から、斬新なアイデアつまり創造も生まれるということである。
「間違い」が想定外のアウトプットを生み出すというのは、「進化」のプロセスにも似た興味深い指摘です。
さらには、こういった“柔軟性(確率的ないい加減さ)”のおかげで、脳に障害が生じた際のリカバリーを可能にするというのですから驚きです。
(p107より引用) 具体的には、信号が伝わる確率を上げ、伝わる経路も変えることで、機能代償を果たしていることはまちがいない。そしてそれは、ニューロン間の信号伝達が確率的であるからこそ、またその伝達の確率を経験や学習で変えることができるからこそ可能なのである。つまり、ときどきまちがいを起こすようないいかげんで柔軟な神経回路だからこそ、機能代償も可能になるのである。
こういう “いい加減” で一筋縄ではいかない「脳」ですから、昨今のAI(人工知能)議論でみられる「AIは脳の動作をモデル化したものだ」とか、逆に「AIの研究が脳の神経回路で起きていることを解明する」といった論調を櫻井さんは、現在の脳研究の実態を理解していないものだと一蹴します。
そのほかにも、櫻井さんは実しやかに語られている「右脳左脳神話」「男脳女脳神話」「10%神話」といった “脳にまつわる迷信・都市伝説?” を取り上げては、その間違いを指摘していきます。それらは、脳科学における「機能局在論」「責任部位論」「遺伝子決定論」「神経伝達物質決定論」といった考えによるのですが、脳はそれほど “分かりやすく” はできていないようです。
(p222より引用) 脳の機能は、多様な部位、多様なニューロン、多様な神経伝達物質、そして多様な遺伝子が相互作用しながら働くアンサンブルによって実現されていると考えざるを得ない。
さて、本書を読み通しての感想ですが、期待どおり、興味深い気づきのオンパレードでした。それらは「新たな知識」もありましたし「新たな考え方」もありました。
たとえば、広辞苑では「物事を忘れずに覚えている、または覚えておくこと。また、その内容。ものおぼえ。」と記されている「記憶」の定義。
(p80より引用) 記憶を一口で定義すると「経験に基づく行動の変容」であるが、「同じ刺激入力に対し同じ結果を出力する」ことともいえる。・・・記憶を脳から定義すると、「特定の神経回路をつくるニューロン間の信号伝達の確率が高くなった状態」といえる。
こういう捉え方は、拠って立つ基点の違いが新鮮でとても面白いですね。
まさにこれが新たな刺激を得る “読書の楽しみ” のひとつです。
以前勤めていた会社の同僚の方が紹介していた本です。
三國清三シェフの著作は、以前「僕はこんなものを食べてきた」を読んだことがあります。
そのときも面白く拝読しましたが、本書は、ご自身のお店(オテル・ドゥ・ミクニ)を閉じるという大きな節目にあたって記した “自伝” とのこと、大いに期待して手に取ったものです。
まずは、“厨房のダ・ヴィンチ” と称されたアラン・シャペルさんからの教え。
リヨン郊外の彼の店で腕を磨いていた三國さんですが、ある日、三國さんの作った料理をみてシャペルさんはこう一言口にしました。「セ・パ・ラフィネ(洗練されていないね)」。その言葉の意図を三國さんはその後何カ月もずっと考え続けました。
(p198より引用) あのエクルヴィスのムースは、ぼくの心で作った料理ではなかった。知識と技術だけで作った料理だ。いうなれば、天才の料理を上手に真似た優等生の料理だ。うわべはよくできていても魂が抜けていた。
シャペルにはたぶんそれがわかったのだ。
それはただのアラン・シャペルの料理じゃないか。皿の上のどこにも、お前自身がいないじゃないか。お前はダサいなあ、と。
それに気づいた三國さんは、“日本人としてフランス料理を作る” べく、日本に帰国する決心をしたのです。
そして、その挑戦の結果はといえば、1990年、オテル・ドゥ・ミクニを訪れ三國シェフの料理を楽しんだ後、ゲストブックに記したアラン・シャペルさんのメッセージがその答えでした。
(p232より引用) キヨミはフレディ・ジラルデ、ジャンとピエール・トロワグロ、ボール・エーベルラン、それに私、アラン・シャペル、その他彼の師匠と呼ばれるフランス人シェフたちの料理を見事に “ジャポニゼ” してのけたのだ。
この “ジャポニゼ(日本化)” とは、本場フランス料理を「日本人好み」にアレンジしたということではありません。日本の文化的要素を採り入れ「フランス料理の可能性を拡げた」との賞賛の言葉でした。
(p243より引用) 日本の評論家たちが「こんなのフランス料理じゃない」と批判したぼくの挑戦を、彼らはクリエイティブだと評価した。
海外での三國さんへの賞賛の声です。
さて、本書、三國さんのエネルギッシュな姿がテンコ盛りの楽しい内容でしたが、その中でもやはり最も心に響いたのは、三國さんが帝国ホテル村上信夫総料理長と巡り合ったときのエピソードですね。
帝国ホテルでは厨房に入れず洗い場での仕事に就いていた三國さんは、村上総料理長からスイス大使専属料理人に推挙されました。その後日譚です。
三國さんがジュネーブでの大使の料理人の職を勤め上げ日本に帰国する前夜、大使夫人は「三國さんの採用の時、最初は断ったのだ」と語りはじめました。
(p119より引用) 「ですけど、私たちがお断りしたら村上さんが仰ったんです。『あの若者なら大丈夫です。私を信じてください』と。村上さんがそこまで仰るので、それ以上断れなかったんです。三國さん、日本に帰ったら村上料理長を生涯大切にしなさい」
大使が同意するというように、奥様の隣でひとつ頷いた。ぼくが面接に遅刻したとき、あんなに激怒した理由もそれでわかった。目頭が熱くなって「わかりました」と下げた頭が上げられなくなった。
まさに三國さんにとって村上総料理長との邂逅は、その後の人生を一変させた “奇跡的な出会い” でした。
いつも利用している図書館の新着本リストで目についた本です。
“福沢諭吉” という人物には以前からちょっと関心があったので、今までにも、その著書である「学問のすゝめ」「福翁自伝」や北康利氏による「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」といった本を読んだことがあります。
本書は、久しぶりの “福沢本” ですが、ここで紹介されている福沢諭吉の人となりやエピソードの中から、改めて、私の興味を惹いたところをいくつか書き留めておきます。
まずは、諭吉の蘭学からの学びの中での “「窮理」学の位置づけ” について。
(p55より引用) 福沢は生涯にわたって「窮理」「物理」の学を、文明の学術として重視した。・・・実際、福沢はしばしば「物理学」の語を、今日私たちがイメージする狭義の物理学 (Physics)だけでなく、医学、天文学、生理学などを含め、広くこの世界の「万物」の「理」を探究する学問の意味で用いた。
この「窮理学」が、後に連なる諭吉の “文明論” を構成する基本要素となったのです。
次に、諭吉にとっての “「文明」の意味” について。
(p58より引用) 福沢諭吉の思想を読み解くうえで、「文明」とならぶ重要な概念に、「独立」がある。明治期に入り福沢は、『文明論之概略』のなかで、「国の独立は目的なり、今の我が文明はこの目的に達するの術なり」と述べた。
ここで示されている福沢が思う “独立=目的、文明=手段という関係性” はとても興味深い議論ですね。
「独立」という点で言えば、このころの日本は開国後、一気に列強相犇めく東アジアの国際舞台の荒波に飲み込まれていきました。
(p58より引用) 福沢は西洋列強と対峙する厳しい国際政治の現実を怜悧に見すえ、日本の国家的独立について、切迫した危機意識を抱いた。
諭吉にとっての「文明」はアカデミックなものではなくポリティックそのものでした。
そして、私が最も興味をもった論考が “明治維新の真因” に係る立論でした。
(p90より引用) 明治維新はなぜ起こったのか。それは攘夷論の隆盛によるものなのか。決してそうではない、と福沢はいう。明治維新の真の原因は、「智力と専制との戦争」であった。福沢によれば、明治「革命」の源流は一八世紀後半まで遡る。そこでは、「藩中にて門閥なき者」や「無位無縁にして民間に雑居する貧書生」たちが、徳川の門閥専制に対して不平を抱き、智力を磨いた。彼ら「智力ありて銭なき人」が生みだした「智」は、「いつとなく世間に流布し」た。そして黒船が来航すると、「政府の暴力」と「人民の智力」との争いが激化する。その結果、「西洋文明の説を引て援兵となし」、「人民の智力」が「鬼神のごとき政府」を打破した。
そして、この「智力ありて銭なき人」の一人が諭吉自身だというわけです。蘭学を興りとする新たな学問が「人民の智力」となり専制の暴政を打破する「革命(明治維新)」を生んだと考えです。
著者は諭吉の思想の “意味付け” をこう概括しています。
(p94より引用) 福沢諭吉は西洋見聞の経験をもとに、バックルやギゾーら同時代一九世紀西洋の最先端の文明論と格闘するなかで、徳川期の会読をはじめとした蘭学修業の経験と、そこで学んだ物理学や兵学の知識を綜合し、壮大な文明化と国家的独立の構想を導き出したのである。
さて、本書を読んでの感想です。
“蘭学者”という側面を基点にした「福沢諭吉再考」ですが、100ページ強のボリュームのなかでその論旨は要領よく紹介されていました。
「福翁自伝」「文明論之概略」をはじめとした諭吉の著作や今に至る学者たちの研究成果をうまく引用しつつ説き下していく解説スタイルは、諭吉の思想のアウトラインを俯瞰的に辿る「入門書」としては効果的だったと思います。