ちょっと前に沢木耕太郎さんの「飛び立つ季節:旅のつばくろ」というエッセイ集を読んだのですが、その本はシリーズ第2作目とのこと。なので、当然のごとく “第1作目” にもトライすることにしました。
テーマは同じく「国内旅」。いったい沢木さんはどこを自らの旅の始発に据えていたのか、楽しみにページをめくりました。
まずは、16歳のころの沢木さんの旅の思い出です。
国鉄の周遊券を手にした沢木さんは龍飛崎を目指して一人津軽線に乗っていました。
(p58より引用) 列車には行商のおばあさんたちが大勢乗っていた。リュックひとつで旅をしている少年の姿が珍しかったのか、盛んに話しかけてきてくれるが、何を言っているかわからない。本当にひとこともわからないのだ。そのときの津軽弁に対する「まったくわからない!」という絶望感は、のちに沖縄に行って石垣島のおばあさんたちと話したときに覚えた八重山方言に対する「まったくわからない!」という絶望感と双璧をなすものだった。
先の「飛び立つ季節 :旅のつばくろ」の感想にも書きましたが、私も高校生のころ国内ですが「鉄道+ユースホステル」の一人旅をしたことがあります。旅先で強い印象を残すのが “その土地の言葉” というのは、私の体験からいってもよくわかりますね。私の場合は、薩摩半島指宿枕崎線(鹿児島)の車内でのおばあさんどうしの会話でした。本当にひとこともわからないんですね。
ただ、長い年月を経た今回の沢木さんの龍飛崎への旅の途上での驚きは、土地の人が話す言葉が理解できたことでした。昔のように日常的に “津軽弁” を話す人が少なくなったのであれば、ちょっと淋しいことです。
そしてもうひとつ、やはり東北の旅から、沢木さんの “旅の原点” のひとつが語られたくだり。
深夜の北上駅の待合室でのエピソードです。
(p210より引用) どれくらい経っただろうか。いつの間にか眠っていたらしい。ふっと気がつくと、背後で、足音がする。しかも、こちらに近づいてくるようだ。・・・その足音は私の すぐ近くで止まった。・・・そして、しばらくすると、私の体にふわりと何かが掛けられた。
次の瞬間、心の中で、「あっ!」と声を上げそうになった。それは、私の毛布だった。その男性は、私の体から床に滑り落ちた毛布を拾い、掛け直してくれたのだ。
私は、依然として眠ったふりをしながら、その人を疑ったことを激しく恥じた……。
・・・
私は、あの十六歳のときの東北一周旅行で人からさまざまな親切を受け、それによって、旅における「性善説」の信奉者になった。
今はどうでしょう。性善であろうと性悪であろうと何か関わりを求めて行動するというより、そもそも相手になろうとしない “性無関心?” な世情のような気がします。