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日本の歴史 (17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義(松岡 正剛)

2007-06-16 20:02:38 | 本と雑誌

Ginkaku_ji  本書の第四講は「日本について考えてみよう」というテーマです。

 神話の時代から説き始め、室町時代の「世阿弥」に至ります。

 その論考の中で、興味深かったのは、「あはれ」と「あっぱれ」
 松岡氏は、この言い換えを「公家文化」から「武家文化」への転換の象徴的事象と捉えています。

(p255より引用) 武士たちは「あはれ」を「あっぱれ」というふうに破裂音を使って言い替えることによって、貴族の美意識を武士の美意識にしていったんですね。
 貴族の「あはれ」は当事者が感じている「あはれ」です。ところが武士の「あっぱれ」は「あはれ」な状態にある人のことを、「なんと、あはれな奴じゃ」とは言わずに、「なんと、あっぱれな奴じゃ」と言い換えるという形で成立するものです。・・・
 この「あはれ」から「あっぱれ」への変化が、公家文化から武家文化への大きな転換を象徴していました。そして、それが650年続いた。そう、見るといいでしょう。

 また、この講で松岡氏は、茶の湯の歴史を辿りながら日本人によく見られる「二分法的思考様式」に触れています。

(p336より引用) こういうふうに利休と織部をくらべてみると、日本文化がつねに弥生型と縄文型とか、公家型と武家型とか、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」とか、たえず対照的に発展してきたことを思い合わせたくなるでしょう。・・・
 まさに日本はいつも「漢」と「和」の両立に匹敵するような、「和」のアマテラスと「荒」のスサノオに象徴されるような、そういう二つの軸で動いてきたんです。

 このあたり、「相手との相関関係のなかで自己を規定する」という日本人の特性と通ずるところでしょう。

 とはいえ、こういった二分法は、日本のみの専売特許ではありません。西欧社会にも見られますし、身近には中国の「儒教」も有名な2つの論の系譜を有しています。

(p111より引用) 筍子は性悪説を取ることによって、だからこそ人間は教えを受けるということが必要なのだ、ということを説いたんですね。ここから、筍子の性悪説は教育論になっていく。そして孔子や孟子の性善説は帝王学になった。そういうふうに見るとわかりやすいでしょう。儒教というのは、この二つの人間思想を包含しているわけです。

 最後にもうひとつ、松岡氏の講義で「なるほど・・・」と感じいったのは、禅林文化における「引き算」という方法です。
 その代表例が「枯山水」です。

(p273より引用) 枯山水は、実際には岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を観じていこうというものですね。こういう見方を禅の言葉で「止観」といいます。・・・
 しかも枯山水は水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きているんです。それが新しい美を生んだ。

 対象が目の前にあると、やはり人はそれに囚われてしまいます。

(p323より引用) 何もないことによって、見る人の想像力のほうに、大きな世界を見せていこうという方法です。
 こういう方法のことを私は「負の方法」と呼んでいます。あえてそこに「負」をつくることによって、新しい「正」が見えてくるようにする方法です。
 何もないからこそ、想像力で大きな世界を見ることが可能になる。あるいは、何もないからこそ、そこに最上の美を発見することができる。

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義 17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2006-12

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