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「わかる」の分水嶺 (わかったつもり(西林克彦))

2006-04-18 23:54:24 | 本と雑誌

 以前から「わかったつもり」の弊害について気になっていたのですが、似たような問題意識のタイトルの本があったので手にとってみました。
 内容は、「読解力」(文章に書かれていることの理解)にフォーカスしているので、私の関心と完全にスコープが一致しているわけではないのですが、かなり頭の整理にはなりました。

 本書の著者の西林氏は、まず、「わかった」という状態について、以下のように説明しています。
 「わかる」ためには、それまでに獲得している知識を無意識のうちに使っている。そして、それによって文の「部分間の関連」を理解しており、部分間の関連がつくと「わかった」気持ちになる。

 本書であげられている「なるほど」という例をお示しします。

(p31-32より引用)
①サリーがアイロンをかけたので、シャツはきれいだった。
②サリーがアイロンをかけたので、シャツはしわくちゃだった。

 ①は、そのとおりです。ここでは、アイロンはしわを伸ばすための道具だという周知の事実が背景にあります。
 ②は、サリーはアイロンかけが不得手だという特別な知識の前提が必要です。この前提があってはじめて「部分(前後)間の関連」がつくのです。

(p32-33より引用)
③小銭がなかったので、車を持って行かれた。
④布が破れたので、干し草の山が重要であった。

 このあたりの例示は秀逸だと思います。
 この2つの文を理解するには、ヒントの言葉が必要でしょう。③は「パーキングメーター」、④は「パラシュート」。
 逆に、このヒントがあるとすっと理解が進んでいきます。読む人の納得感が得られやすい親切な説明だと思います。

 こういったわかりやすい例を豊富に取り入れて、西林氏は「わかる」ということと「よりわかる」ということを説明して行きます。

 西林氏の目指している「読解力の向上(=読みを深める)」は、結局のところ、「読み」の場合だけではなく、「よりわかる」という状態を目指しているという意味で、すべての意思伝達(コミュニケーション)において、その質の向上に役立つものです。

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