Learning Tomato (旧「eラーニングかもしれないBlog」)

大学教育を中心に不定期に書いています。

vol.406:ハーモニー(伊藤 計劃)

2011年05月19日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊
ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
伊藤 計劃
早川書房


東日本大震災の発生から2ヶ月が経過しました。いまだ福島原発の状況は予
断を許しません。行方不明者の数も一万人近くに上っています。瓦礫の撤去
やライフラインの復旧、仮設住宅の建設など被災地域の復興はようやくス
タート地点についたところといえます。

そのような中、某民放テレビ局では「ひとつになろう日本(ニッポン)」と
いうキャッチフレーズをつくり、番組の合間に、出演者が視聴者に向かって
このフレーズを呼び掛けていますが、どうもこのキャッチフレーズは「ひと
つになること」自体が目的のようでやや違和感があります。
私としては「ひとつになって何をするのか?」ということこそ考えなければ
ならないと思うのですが(歴史上、ひとつになってとんでもないことをして
しまった国や組織はいくつもあります)、それでもやはり「ひとつになる」
というフレーズにはどこか我々の感情に働きかける要素があるのかもしれま
せん。
それではもし本当に日本がひとつになったら?あるいは地球上の人類がひと
つになったら?そうした問いに対するひとつの解答が、この『ハーモニー』
であるといえます。

本書で描かれる世界は、21世紀後半、超高度に発達した医療技術によってあ
らゆる病気が放逐された一種のユートピアです。かつて<大災禍>と呼ばれ
る世界的な混乱によって、大量の死を経験した人類は、構成員の命と健康を
第一に守る社会を築き上げたのです。
この世界では老化と予期せぬ事故以外に命の心配がありません。一人一人が
この世界にとって欠くべからざるリソースであるという意識が、一種の規範
として社会の構成員に刷り込まれており、人々は争ったり傷つけあうことな
く、お互いを思いやる優しさに満ちています。世界を統治する単位も、かつ
ての国民国家の統治機構「政府」ではなく、構成員の健康を第一に気遣う
「生府」に取って代わられています。
しかし、ある日突然6,582人もの人間が同時に自殺を試みるという大事件が
起こり、このユートピアの存立が脅かされる事態に至ります。この事態に対
し、ユートピアの基礎となる技術を開発した科学者たちはある選択を迫られ
ることなります。

これ以上のあらすじ紹介はネタばれになってしまうので差し控えますが、物
語の主題そのものは『幼年期の終わり』以来、ガンダムやエヴァンゲリオン
でも扱われてきた「人類の進化」であり、SFとしては一種の定番ともいえま
す。しかし、本書で描かれるユートピア世界は極めて複雑で重層的であり、
読み始めるとまずはそのリアリティに引き込まれてしまいます。この世界観
は筆者の豊饒な想像力をベースに、脳科学、認知科学、分子生物学や国際関
係学などの知見を元にした緻密なロジックと膨大なディテールを粘り強く積
み重ねて構築されたものです。ストーリーテリングも巧みで結末まで一気に
読ませますし、さらにはラストのオチが素晴らしい。このオチは単に小説の
ラストを締める役割だけでなく、この小説の構造を一瞬にして読者に悟らせ
る点で極めて優れたアイデアといえます。
何より「人間とはなにか」というテーマに正面から挑んでいる点に、筆者が
小説家として目指した到達点の高さがうかがえます。私にとっては、震災発
生以降、現実がフィクションを超える事態をいくつも目にするなか、フィク
ションの持つ力を改めて認識できた一冊でした。確かに現実はときに想像を
超えますが、それでも我々は想像によって新たな現実に対応してきたのです。
SFファンのみならず、フィクションの素晴らしさを堪能したい方にお薦めの
一冊です。

さて筆者の次回作を読みたいところですが、残念なことに筆者はこの『ハー
モニー』の単行本が刊行されてからわずか3カ月後の2009年3月20日、癌のた
め逝去されました。『ハーモニー』のような極めて完成度の高いSF小説が二
度と読めないことを心から残念に思うとともに、改めて筆者のご冥福をお祈
りいたします。
ちなみに本書は筆者の長編デビュー作である『虐殺器官』(2010年、ハヤカ
ワ文庫JA)と対をなしています。この『ハーモニー』に興味を持たれた方は、
まず先に『虐殺器官』(すごいタイトルですが)を読まれることをお薦めい
たします。それでは、また。
(文責 ナカダ)

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