Learning Tomato (旧「eラーニングかもしれないBlog」)

大学教育を中心に不定期に書いています。

005 『活躍する組織人の探究』を読んで思った事

2014年09月19日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊


『活躍する組織人の探究』 大学から企業へのトランジション(東京大学出版会 2014)

社会人教育の世界から大学教育の世界に移住して、今年で7年目になりました。この7年間、「シャバ」の世界で役に立つ人材を大学で育てたい、そのために大学で何をどのように教えるべきか、あるいは教えずに学習してもらうにはどうしたらよいか試行錯誤してきました。しかし単に実践するだけでは、その実践が正しいのか間違っているのか分かりません。そこで毎年1回はどこかの学会で教育実践を発表し、他者からの助言をいただくよう努めてきました。

しかしながら、本質的なところで「本当にいいのかなあ?」という思いが拭えぬままに実践を継続してきました。その要因の一つとして、大学教育~社会人教育の接続に関しての研究が今まであまり存在せず、実践内容をアカデミックな知見から演繹的に検証することが難しかったことが挙げられます。
今回ご紹介する『活躍する組織人の探究』は、この分野にアカデミックな検証をいれた研究書です。しかも編者はこの分野を代表する東西の両横綱 東大の中原淳先生と京大の溝上慎一先生です。2人は7月に開催される「大学生研究フォーラム」で絶妙なコンビを組んでフォーラムを企画・運営しておりまして、そうした蓄積もこの本に多く反映されております。

さて、本書の中身ですが、誤解を恐れずに簡単にまとめると「企業に入ってから役立つ大学の勉強、大学時代の過ごし方、大学時代の意識の持ち方を、大規模なアンケート調査をベースに実証的に研究したもの」と言えます。

まず2章と3章が予備知識編となっています。2章では採用から新入社員教育あたりまでの人材マネジメントに関する先行研究について中原先生が簡潔にまとめています。3章は溝上先生が、昨今の大学教育や大学生事情についてまとめています。2章で特筆すべきは、25ページという決して長くない本文に対し、なんと9ページにもわたる参考文献リストが存在することです。つまりこの章には古今東西の採用~新入社員育成までの研究がギューーーーーッと濃縮されているのです。コガ的には、2章だけ(もっと言えば参考文献リストだけ)でもこの本を購入する価値は十分にあると考えます。
4章は本書の核ともいえる大学生活と仕事生活に関する調査の記述統計が示され、続く5~7章ではそのデータからの分析がまとめられています。5章は「就職時」6章は「入社・初期キャリア形成期」7章は「初期キャリア以降の成長課題」といった時系列に即した分析結果の並びになっています。そして8章がまとめの章となります。

本書の結論をおおざっぱにまとめると
「就職後の組織適応にポジティブな効果を与えるためには、
・大学時代に将来への見通しを持つこと
・周りの大学生だけでなく、異質な他者との関わりを持つこと
・豊かな人間関係を重視した大学時代を過ごすこと

が重要である」

となります。それらがどのようにデータで実証されたのか、そうした意識や行動をとることが、将来何に繋がるのか等は、ぜひ本書をお読みになってご確認ください。

最後にコガが本書を読んだ後も疑問に思っていることをまとめたいと思います。それは「社会(会社に非ず)に役立つ人材」ってどういう人なのかということです。本書の7章では、「企業で躍進する」ことを「革新的な行動をとれる人材」と定義しています(p.156)。しかし、そもそも革新的な行動をとれる人材だったら、企業の中でがんばるより、独立して起業を目指すのではないでしょうか?企業がそうしたイノベーション人材を求めていることは分かりますが、もし「イノベーティブで躍進している」ような奴らばかりだったら組織は成り立たないのも自明です。サッカーで11人のFWをピッチに立たせるようなものだからです。

とすると、日本中の大学が「活躍する人材」を一つの型(イノベーション人材とかグローバル人材とか)に定め、それをゴールに大学のカリキュラムを作る事って果たして正しい事なのでしょうか。多くの大学が右へ倣えで「イノベーション人材」とか「グローバル人材」ばかりを目指したら、一体この国はどうなってしまうのでしょうか?

大学教育において多様なゴールが認められるのであれば、それぞれに合った多様な教え方や教育内容が存在するはずです。さらに入学してくる新入生のレディネスによって教え方や教育内容を変化させていく必要がでてくるとなると、大学教育というのはゴールも手段も個別具体的にならざるのでしょうね。

とはいうものの、どこかに軸足を置いて、実証的に研究しないことには、一歩も先に進むことはできません。そうした意味で本書が果たした役割というのは大変大きなものだと思います。ぜひご一読のほどを。
<文責コガ>

002:評価をポジティブな言葉に変える魔法

2014年08月24日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊


『大学教員のためのルーブリック評価入門』
ダネル スティーブンス (著), アントニア レビ (著), Dannelle D. Stevens (原著), Antonia J. Levi (原著),
玉川大学出版部 高等教育シリーズ (2014/3/24)


「評価」

大抵の大学人はこの言葉からネガティブなイメージを連想するのではないでしょうか?
大学教員のお仕事の中では、至る所で「評価」という活動が出現します。一番大きい括りでいうと7年に一度の「大学認証評価」という大作業、日々の仕事ということでは、レポート、テスト、卒論、成績といった「学生の評価」、さらには学生による「授業評価」等、日々評価の連続なのです。

そしてどの評価おいても、一般的な大学教員は「楽しい」「充実した」「ためになる」「わくわく」といったポジティブな修飾語でなく、「つらい」「めんどう」「形式的」「恐る恐る」といったネガティブな修飾語を連想するのではないでしょうか。

前置きが長くなりましたが、今回ご紹介する『大学教員のためのルーブリック評価入門』はそんな大学教員の「評価観」を180度とまではいかないものの、相当ポジティブなものに変えてくれる本です。

なぜポジティブにしてくれるか?それはルーブリックを活用することにより、

・評価のプロセスが効率的になる
・評価の品質が一定する
・学生のパフォーマンスが向上する
・学生の満足度が高まる

等のメリットがうまれるからなのです。

ではルーブリックとは一体何なのか?
熊本大学教授システム学専攻の「基盤的教育論」Webサイトでは

「ルーブリック(Rublic)とは、レベルの目安を数段階に分けて記述して、達成度を判断する基準を示すものである。学習結果のパフォーマンスレベルの目安を数段階に分けて記述して、学習の達成度を判断する基準を示す教育評価法」
と定義されています。
http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/2Block/05/05-2_text.html(2014年8月24日確認)

本書はルーブリックの概論、メリット、具体的な作成方法はもとより、様々な状況でのルーブリックの活用方法が紹介されています。例えば
・学生と作成するルーブリック
・教職員と作成するルーブリック
・ルーブリックとオンライン教育
・ルーブリックとプログラム評価
などです。

個人的には「学生と作成するルーブリック」の章を最も興味深く読ませていただきました。この章の冒頭は
「学生の評価方法を学生たちに作らせるんだって?ニワトリ小屋の番を狐にさせてしまおうってわけかい?」私の友人はかつて冷やかに笑った。
という魅力的な一文で始まります。

「学生と作成する」と言っても様々なレベルがあり、本書では学生の関わり方の度合で5つのモデルを紹介しています。それらの背景には「学生たちがルーブリックの作成に参加すれば、『学ぶ』というのは能動態の動詞であることを理解し始める」という思想があります(p.161 終章「ルーブリック・マニフェスト」より)。

さて、本書を読んでいて気になった点があります。本書ではルーブリック長所の一つとして「レポートのコメントを書く手間が省ける」という点をあげています。ルーブリックの中に具体的なパフォーマンスが記述されているので、個々のレポートに一々何回も同じコメントを書かなくても該当するパフォーマンスの記述をチェックし、その表をレポートに添付して返却すれば良いというものです。

例えば、レポートの評価で用いるルーブリックの評価基準であれば、

□導入・展開・結論が明確であった
□文法、綴りが正確であった
といったものがパフォーマンスの記述になります。

しかし日本の大学では、これまで大学生が提出したレポートにコメントをつけてフィードバックするという事をあまりやってきませんでした。だからそもそもコメントなんて書く必要もありませんでした。
正直なところ、コガも全てのレポートにコメントをつけて返却しているかというとできていません。忙しくてすべてのレポートにコメントをつける時間がない。あるいは期末に課すレポートの場合、学生が休暇に入ってしまい返却する機会がない。等の理由からです。

しかしルーブリックを使えば効率化できますし、評価の一貫性や妥当性を学生に示すことができます。また返却方法については今後eポートフォリオのシステム等が導入されれば解決できるはずです。日本の大学におけるルーブリック活用の前提として、この「レポートは返却する」文化をまず定着させることが重要ではないかと考えた次第です。

なお、本書の翻訳を監修された佐藤浩章先生よりfacebookを通じて下記のコメントをいただいております。

シラバス・教育内容・教育技法までは教員の皆さん結構力入れるんですけれど、評価は意外とあっさりという方が多いので、評価を変えると学習は変わるということをこの本で伝えられればと思います。個人的には、最後のルーブリック・マニフェストが感動的で好きなんですけれどね。

ぜひご一読のほどを!

vol.499:流星ひとつ

2014年03月02日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊


流星ひとつ 沢木 耕太郎

皆さんこんにちはナカダです。どういう巡り合わせか(純粋に巡り合わせな
んですけど)、このコーナーの最終回を担当することになりました。力不足
であるのは重々承知しておりますが、何とかトリの務めを果たしたいと思い
ます。さて、最終回ではこの1年ばかりに読んだ中で、最も印象に残った一
冊を挙げさせていただきます。

本書は、歌手の藤圭子さんが突然の引退を表明して間もない1979年の秋に、
沢木耕太郎氏がホテルニューオータニのバーで藤さんにインタビューした記
録が収められています。このインタビューは500枚ほどの原稿にまとめられ、
雑誌に掲載された後、単行本として出版される予定でしたが、藤さんの第二
の人生に与える影響や、自らの原稿への疑問から、沢木氏は出版を取り止め
ます。その後、この原稿は長年お蔵入りになっていましたが、昨年の8月、
藤さんの自死というニュースが世間を駆け巡ります。

沢木氏は藤さんの自死をきっかけに、より正確には「精神を病み、永年奇矯
な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性」という報道に対する違和感
から、34年間お蔵入りにしていた原稿を公にすることを決めます。沢木氏が
改めて本書を読み返したところ、世間に流布された藤圭子のイメージとは全
く異なる、「藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚の
スナップ写真になっているように思え(た)」(p.321)からです。

私は1977年生まれですので、1979年に引退した藤圭子さんの現役時代は全く
知りません。引退後の「奇矯な行動」についてもほとんど知りません。しか
しそうした背景知識を欠いていたことがむしろ幸いしたのでしょう。1人の
天才歌手が、歌の世界の頂上で何を見たのか、そして頂点に立った自分自身
をどのように観察しているのか、例えるなら、優れた登山家が冷徹に自身の
山行を振り返った記録として興味深く読むことができました。特に印象に残
っているのは、藤さんが頂上に立った後の自分について語った箇所です。本
書のハイライトとも言うべき部分ですので、やや長いですが、次のとおり引
用いたします。

「あたしは、やっぱり、あたしの頂に一度は登ってしまったんだと思うんだ
よね。ほんの短い間に駆け登ってしまったように思えるんだ。一度、頂上に
登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。一年で登った人
も、十年がかりで登った人も、登ってしまったら、あとは同じ。その頂上に
登ったままでいることはできないの。少なくとも、この世界ではありえない
んだ。歌の世界では、ね。頂上に登ってしまった人は、二つしかその頂上か
ら降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、他の頂上に跳び移
る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。」(p.196)

もしかしたら藤さんは「他の頂上に跳び移る」ことがうまくいかなかったの
かもしれません。しかし、少なくとも1979年の秋には、彼女は確かに頂上に
いたのです。その意味で本書は、沢木氏が述懐するとおり、1人の天才歌手
の最も美しい瞬間を、奇跡的に捉えたスナップ写真だと言えるでしょう。し
かし、美しい写真が成立するためには、被写体の素晴らしさだけでなく、そ
の最高の一瞬を的確に切り取る撮影者も必要です。

つまり、本書では「輝くような精神の持ち主」であった28歳の藤圭子だけで
なく、その精神の輝きを切り取った31歳の沢木耕太郎自身も鮮明に描写され
ているのです。この『流星ひとつ』は、インタビューの聴き手と話し手が、
掛け合いの中でともに相手を鮮やかに映し出している点で、異色かつ出色の
作品であり、数ある沢木作品の中でも掛け値なしの傑作の一つだと言えます。

最後に、(やや強引ではありますが)本メルマガの発行趣旨に立ち返り、本
書にビジネスや教育への応用可能性を見い出すならば、それはやはり沢木氏
の卓越した「聴く技術」でしょう。本書のインタビューでも、沢木氏は「相
づち」や「共感」、あるいは「言い換え」といったアクティブリスニング
(積極的傾聴)の手法を効果的に活用し、藤さんの率直な反応を引き出して
います。沢木氏はこれらの手法を特段意識したのではなく、ノンフィクショ
ンの取材を重ねるうちに自然とそのような聴き方になったのだと思いますが、
私のような凡人はこのインタビューを再読し、少しでも沢木氏の「聴く技
術」を自分のものとしたいところです。

あるいは若き沢木耕太郎がカッコ良く(今もカッコいいです)、ニューオー
タニの─バーという雰囲気も手伝って、ついつい藤さんも心を開いてしまっ
たのが真相かもしれません。しかし私が、沢木氏のような「ニューオータニ
のバーでも馴染める雰囲気」をものにするのは不可能です(というかニュー
オータニのバーに足を踏み入れる機会すらないでしょう)。ここはさしあた
って池袋の大衆酒場でコップ酒を呷っても絵になる男を目指したいと思いま
す。

最終回なのに、書籍ともLearningとも関係のない駄文で締める結果となって
しまいました。いや、今回だけではありませんね。これまで7年半もの間、
私の駄文にお付き合いいただき誠にありがとうございました。また皆さんに
お会い出来る日を楽しみにしております。(文責 ナカダ)

vol.498:コガ最後の担当なので、今までを振り返ってみたいと思います

2014年02月18日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊
このコーナーは次回中田さんの書評で最終回です。そして今回はコガの担当
する最後の順番となりました。そこで、今回は新たな書籍を紹介するのでな
く、このコーナーの足跡を振り返ってみたいと思います。

その前に、メルマガ読者の方からメールをいただきましたので紹介します。

>>>>>>>以下いただいたメール>>>>>>>>>
メルマガ執筆陣の皆さまへ
本当に長い間楽しく有意義な情報をありがとうございました

私はeラーニングワールド最盛期の頃、某メーカーでLMSなどに
関わっておりました縁でこのメルマガを知り、以来、毎週楽しみに
読ませていただいておりました。
特に書評欄で紹介される本は、そのチョイスといいコメントの
すばらしさといい、私にとって何より大事な情報源でした。
申し訳ないほどにラーニングとは関係ない本ばかりですが
ざっと思いついたところは、
(勘違いもあるかもしれませんが・・・)
・ロバート・サブダのしかけ絵本
・一人の男が飛行機から飛び降りる
・原色 小倉百人一首
・村上春樹の中国行きのスロウ・ボート
最近では、
・狭小邸宅
・マンガでわかる統計学
・戦略の原点
などなど、ほんとに外れがありませんでした。
最近では、職場の悩み相談もセンスいっぱいでした。

この度、休刊されるとのこと、残念な気持ちはつきませんが、
Sanno Learning Magazineファンとしてこれまでの御礼を
皆さまへお伝えできれば幸いです。
今後のご活躍をお祈り申し上げます。
>>>>>>>以上いただいたメール>>>>>>>>>

ちなみに、お楽しみいただいた書籍を取り上げた書評のバックナンバーは下
記のリンクにあります。この機会にご一読いただければ幸いです。

・ロバート・サブダのしかけ絵本(http://goo.gl/cTtjzP
・一人の男が飛行機から飛び降りる
・原色 小倉百人一首(http://goo.gl/I5Wavk
・村上春樹の中国行きのスロウ・ボート(http://goo.gl/F2n9A0
・狭小邸宅(http://goo.gl/a622CD
・マンガでわかる統計学(http://goo.gl/HzDqy9
・戦略の原点(http://goo.gl/8BylJa

なぜかバリー・ユアグローさんの『一人の男が飛行機から飛び降りる』だけ
が見つかりませんでした。マツモト1.0やナカダが好きそうな作家なので
いかにも書評に残っていそうなのですが・・・・。

ところで、今までこのメルマガで何冊の書評を扱ってきたと思いますか?

このメルマガのバックナンバーを保存している「eラーニングかもしれないBlog
のカテゴリで確認してみると、なんと299の記事が今まで存在します。
とすると今回が記念すべき300冊目?

それが違うのです。

ブログでメルマガのバックナンバーをアーカイブし始めたのは2004年の9月
のvol.132からなので、それ以前の書評がカウントされていないのです
Blogでのアーカイブの最初の号はこちらをクリック)。

実は1号から131号といくつかの「創刊準備号」については、以前は産能の公
式Webサイトにアップされていたのですが、お下品なコンテンツ?だったせ
いか外されてしまい、その原稿の行方が分からなくなっていました。私のPC
に元原稿も残っていないのです。

しかし、最近、”wayback machine”( http://archive.org/web/)という
サイトを使い、消えていた全てのバックナンバーを発見することができまし
た。このサイトはインターネット・アーカイブ(The Internet Archive)と
いう非営利団体が運営しており、ある時点において収集された世界のありと
あらゆるWebウェブページのコピーアーカイブしてあるサイトなのです。そ
こに紛失したバックナンバーがすべて残っていたのです。



http://web.archive.org/web/20050213214234/http://www.hj.sanno.ac.jp/ltec/

上記webサイトの左側のフレームに画像のリンクが切れてしまった横長のバ
ナーが縦に3つ並んでいます。その一番上をクリックすると、142号までの
メルマガバックナンバーを読むことができます。

その結果、この書籍紹介のコーナーは103号から始まっていたことが判明し
ました。つまり先ほどの299記事に29号プラスされるので、328記事というこ
とになります。

ちなみに最初のころのコーナー名は「eラーニングにこの1冊」でした。し
かしすぐに、eラーニングに関連した本だけでは続けることができないこと
が明らかになり、ついに131号で「eラーニングに関係ないかもしれない1冊」
とコーナー名を変更しています。131号の冒頭にコーナー名変更の経緯がこん
な風に書かれていました。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>以下引用>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
最近このコーナーを全面的にお願いしているM君と私(A)のある日の会話
M:「Aさん、このコーナーちょっと無理がありません?」
A:「何?」
M:「だってe-Learningと全然関係ない本をむりやりe-Learningにこじつけ
ているパターンばかりじゃないですか」
A:「まあそれは今に始まったことじゃないけど・・・」
M:「アーサーCクラークの「イルカの日」なんでこじつけの極みでした
よ」
A:「あれは反省しているよ。でも関係のある本なんて少ないし、あんまり
面白くないし」
M:「じゃあ思い切ってコーナーの題名を変えましょう」
A:「おう、それがいい」

ということで「eラーニングに関係ないかもしれない1冊」とコーナー名を
変更しました。ということで今まで以上に「eラーニング」という枠にとら
われず、古今東西のマネジメントに関するちょっと面白い本を紹介するとい
う路線でいきます。

結果として、書評の最後に「いかにeラーニングにこじつけるか」というス
リルが増してきました。
でも「結局関係なかったですね」もアリとなりましたのでご勘弁を。。。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>以下引用>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

この時、「関係ないかもしれない」にコーナー名を変更しなかったら、ここ
まで続くコーナーにはならなかったでしょう。なぜなら「eラーニングに関
係ないかもしれない」というタイトルは、このメルマガ自体の性格をもっと
も端的に表現しているからです。

実は発行当初より、このメルマガ自体がeラーニングではないかとひっそり
考えていました。学習(Learning)は「経験による比較的永続的な行動変
容」と定義されます。「継続的なメルマガの購読」という「経験」が、読者
の「行動変容(書評で紹介された本を読んでみる等)」を促しているならば、
ラーニングのツールと呼んでもおかしくない筈。しかもインターネットを通
じて配信しているならば、eラーニングと呼んでもいいのではないかと。

とはいうものの、世間一般のeラーニングのイメージは音声+動画=マルチ
メディアなものです。そして教える側と学ぶ側がもっとインタラクティブな
関係にあるものがeラーニングとみなされています。そうした視点でみると
「文字だけ」「一対多で情報配信するだけ」のメルマガはとてもeラーニン
グと呼べる代物ではありません。

だからこのメルマガは「関係ないかもしれない」なのです。
もちろん執筆内容も「関係ないかもしれない」状況が色濃くなっているのは
周知のとおりです。そもそも書評なんて、一番eラーニングから遠いですよね。

そんなことで、本メルマガのカテゴリの中で一番「らしい」コンテンツが、
この「eラーニングに関係ないかもしれない一冊コーナー」であったとコガ
は考えております。

みなさんはどうお感じになっていましたでしょうか?
メッセージをお待ちしております。

宛先:kogaa アットマーク mi.sanno.ac.jp
件名:Sanno Learning Magazine休刊へのメッセージ

vol.496:『職場が生きる、人が育つ「経験学習」入門』

2014年02月04日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊

『職場が生きる、人が育つ「経験学習」入門』 松尾 睦著 
ダイヤモンド社刊2011年

年甲斐もなく泥酔し、ビルの壁に寄り掛かっていると、すぐ横で恰幅のいい
女子の携帯の声が聞こえてきます。
「今から?バイト。ガールズバー。うん、簡単、あれってコンセプトは恋人
じゃん。昨日もさ、勘違いしたオヤジがさ、、、」。
いきおい体内の全アルコールが分解されました。そう、単身生活でその種の
店の小粋なおねーちゃん達と仲良くなる機会が爆発的にふえていた私は、そ
の電話に心当たりがあったのです。で、彼女らは時折LINEでコミュニケーシ
ョンをとってきます。いえ、「美味しい物食べて、そのままお店に」、とい
う伝統的な営業=「同伴」ではありません。そんなものに騙されるほどpure
な私ではありません。

彼女らの用件は決まって「相談」。キャリアとか、健康とか、友人と行く旅
行への助言とか、、、。つまり、私の守備範囲ばかりです。得々とした気分
で相談に乗る。「お店に来てね」もないかわり、幸か不幸か皮膚接触もあり
ません。んだがしかし、乞われてもいないのに、ありもしない幻想にかどわ
かされ、私は連夜、その店に向かうのでありました。
そう、私は、ビルの谷間の携帯女子のオヤジ客さながら、何人ものおねーち
ゃんの疑似恋人寸前技術に翻弄されていたのです。日本語で言うと「学習能
力がない」となります。

今回の1冊は、こうした経験を効率的に「学習」に至らしめるためのバイブ
ル。著者はこのテーマの第一人者、北大の松尾睦先生です。ここ数年の、成
人教育シーンでのKolbの経験学習サイクルの普及はひとえに松尾先生のご尽
力によるところが大といえましょう。

もちろん経験学習はKolbの、あるいは松尾先生の専売特許ではありません。
「解凍-変化-再凍結」で知られるクルト・レヴィンの最盛期は1940年代です
し、デューイの「経験と教育」は1938年上梓です。でも、その半世紀以上の
時を超えて今、日本で経験学習モデルがこれほど見つめられるのは2つの理
由があると考えます。1つは上意下達とか愚直だけでは組織でやっていけな
いこと、もう1つはモデルが実用ツールとしてこなれていること、です。

本書は、その、実用への「こなれ」の極みと言えましょう。内容は序章+6章。
経験学習の概論を平易に触れつつ、大きく、経験から「(自分が)学ぶ
力」「(部下・後輩を)学ばせる力」を解いていきます
そして、「とりあえずの一人前」の壁を超え、真の中堅・熟達者への道へと
誘ってくれます。

ご存じ経験学習サイクルは、

「具体的経験」
⇒「内省(内省的観察)」
⇒「教訓抽出(抽象的な概念化)」
⇒「教訓を新しい状況に適用(積極的実験)」
(( )内は1984Kolbのオリジナル)

です。

本書では、松尾先生が豊富な研究から導き出された、このサイクルをまわし、
成長のつなげるための5つのポイント(3つの力と、2つの原動力)を詳述
する形で進んでいきます。

3つの力とは「挑戦する力」「振返る力」「楽しむ力」。2つの原動力とは
「(仕事への)思い」と「(他者との)つながり」です。これらを観念的な
説教ではなく、豊富な例やデータを示しながら、それぞれをさらに下位要素
に噛み砕いていきます。

私が特に感じ入ったのは、「楽しむ力」、壁や苦難に対する「意味の発見」
のススメです。下位要素として、
・集中し面白さの兆候を見逃さない
・背景を考え意味を見出す
・達観し後から来る喜びを待つ
が紹介されます。

そう、読み進めていくと、自分が一皮むけた経験が思い起こされ、その時の
苦渋に満ちた自分に伝えたいことが浮かんできます。そしてそれを今の自分
にもう1人の自分が言えばよいのだ、という気付きに至ります。

私とコガ先生は幸いなことに、松尾先生とは7年前の「Work place learnin
g」の企画委員からのご縁。その時の先生のご講演で今でも覚えているのは、
「もう1人の自分」が自分を見つめるメタ認知の説明です。あのマジンガー
Zのパイルダー(巨大ロボットマジンガーZの頭脳部分で、兜甲児の着脱可
能操縦ブース)を引き合いに、「Zから浮き上がったパイルダーからZを見
る感じ」と例示。安田講堂の床に膝から崩れ落ちそうな衝撃は今も鮮烈です。

敬虔なクリスチャンでもある松尾先生。「ガールズバーのねーちゃんに紳士
を気取りながら邪な心を抱いている自分をそろそろ内省しなはれ」、と、あ
の柔和な微笑みでリフレクションされているような気がしてくる今日この頃
です(文責 シバタ)。

vol.496:『元気な中堅企業の人材マネジメント』川喜多喬著(同友館、2013年)

2014年01月30日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊

『元気な中堅企業の人材マネジメント』川喜多喬著(同友館、2013年)

本書は法政大学の経営学部教授である著者が、多年に亘って中堅企業をリ
サーチしたその集大成です。全509ページもある大作ですから、ソフトカ
バーとはいえ手に取るとずっしりきます。

読む前から挫折しそうになりますが、読んでみるとこれがなんと読みやすく、
しかもモーレツ(古い!)に面白いのです。いくつかの専門誌に連載したも
のを再編集しているため、一つひとつの分量はコラムぐらいで負担になりま
せんし、どこから読んでも楽しめます。

本書はタイトルにもあるように、中堅企業(中小零細の事例も多い)の人材
マネジメントについて書かれたものですが、大企業に勤める人が読んでも多
くの示唆が得られると思います。なぜならどれだけ大きな企業でも、マネジ
メントの最小単位は数人、せいぜい数十人単位でしょう。従ってそこで発生
する問題は、大企業でも中堅企業でもよく似たものになるはずだからです。

さらに、企業規模が小さいほうが一般にリソースが不足しています。従って
そこからひねり出される知恵の数々は、ユニークで驚きに満ちています。し
かしながら、よく見ると理にかなっている部分もあり、勉強になることこの
上ありません。

例えば近年、ダイバーシティという言葉が聞かれるようになりました。しか
し、中堅企業はいつも人材不足ですから、昔から女性・高齢者・外国人など
を活用し続けています。

ある会社では、せっかく育てた女性社員が結婚・出産したぐらいで辞めても
らっては困るので、フルタイム労働から、パートタイムへ自在に動かす制度
を持ち、いずれも正社員(!)として処遇しています。育児休暇についても、
(コスト的には苦しくとも)以前から法定期間をはるかに超えて支給してい
る会社があったりします。

また多くの大企業では(社長ですら覚えられないほど)立派な経営理念を
(業者に大金を払って)作成していますが、例えば静岡県の日管
(http://www.fukurou.co.jp/saiyo.html)という企業の理念は、「しつけ
の日管」というすこぶる分かりやすいものです。本社の看板にも大きく書か
れているそうです。

これなら誰もが忘れません。また、しつけに厳しいことで有名になれば、取
引する顧客は喜びます。著者も推測するように、若い社員の親もきっと喜ぶ
ことでしょう。

本書にはこのような企業の超絶工夫が満載です。日本企業だけでなく、時に
海外の企業の事例も紹介されます。さらには古代ペルシャ軍が用いた本音を
引き出す方法など歴史からの引用もあり、著者の教養の深さが垣間見られま
す。

これほど「てんこ盛り」の事例にふれてみると、当たり前ですが人材を大切
にすることがいかに大切で、しかも業績向上に貢献するかが自然と納得でき
ます。倫理的な観点からではなく、純粋に経済行為としてみても、人材に気
を配ることは必須だということが分かります。

また、元気な中堅企業の経営者は、例外なく自分がマネジメントしている人
間のことをよく見ており、心理を読むことにたけていることが分かります。
それゆえ彼らの施策は、常にユニークであり、他社がそのままマネしてもう
まく行くとは限らないのです。

翻って今の多くの日本企業を見ると、お世辞にも人材を大切にしているとは
いえなさそうです。(計れもしない)成果をベースとした人事制度を導入し
たとか、リストラでV字回復を実現したなどと自慢する経営者もいますが、
「そもそもお前らの失策だろうがよ!」と、企業社会の底辺をうろうろして
いるわたくし1.0としては憤りを覚えます。

さらにほとんどの経営陣(特に大企業!)は、従業員の数が多すぎることも
あってか、コマとしてしか考えていません。コマが壊れてもいくらでも代わ
りは調達できますので、コマの気持ちを理解するのは合理的ではありません。
従って、従業員のことをじっくり観察したりしませんし、施策も出来合いの
理論を用いて作成したり、ひどい場合には外部の業者にアウトソースしたり
しています。

しかし、著者である川喜多先生もおっしゃるように、人材育成は多分に企業
個別的で、理論化になじまないものだと思います。仮に理論化できるとして
も、それを待っていられるはずもないので、永遠の試行錯誤を要求されるは
ずです。

そのことを忘れた企業は、従業員に力を発揮してもらうことができず、早晩
市場から退出することになるでしょう。そして、その抜けた穴に知恵と力を
つけた現在の中堅企業が入っていくことで、ビジネスの新陳代謝が促される
ことになるのでしょう。

まさに世は諸行無常、といったところでしょうか。

しかしだからこそ、ビジネス、あるいはそれに競争優位をもたらす人材育成
はこれほどまでに深みがあって面白いともいえます。

さて、私ことマツモト1.0が担当する書評のコーナーはこれでおしまいです。
長きに渡ってお付き合いいただいた読者の皆さん、ありがとうございました。
また、どこかでお会いしましょう!(文責 マツモト1.0)。

vol.495:『学力幻想』(小玉 重夫著、ちくま新書、2013年)

2014年01月06日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊

学力幻想 (ちくま新書)


皆さん明けましておめでとうございます。2014年もよろしくお願い申し上げます。

さて、元日の新聞各紙は、各社渾身のスクープ記事が一面を飾ることが多い
のですが、朝日新聞はそんな予想を裏切り(?)、「教育2014 世界は 日
本は」という連載記事を一面に持ってきました。「グローバルって何」とい
う見出しで、韓国の済州島やUAEのアブダビ、日本の軽井沢に設置された学
校におけるグローバル人材育成の取り組みを取材しています(インターナシ
ョナルスクール・オブ・アジア軽井沢の開校は今年の8月)。朝日新聞は、1
月3日と4日の一面も「教育2014 世界は 日本は」の連載が掲載されており、
今年の主要テーマは教育なのだという明確な主張を感じます。マーケティン
グ上、他の全国紙との違いを出したかっただけなのかもしれませんが、私自
身、教育業界の末端にいますので、朝日のような全国紙が教育問題を大きく
取り上げること自体は、今後、教育を巡る議論が活性化する契機として前向
きに捉えたいところです。

しかし「教育」は誰もが持論を主張することができ、それゆえに俗説が飛び
交い、地に足の着いた議論が難しいテーマでもあります。そこで今回は、教
育問題の主要な論点である「学力」を巡る議論について、我々が陥りやすい
罠を分析した本書を取り上げたいと思います。

本書は、著者がこの20年ほどの間に執筆した4篇の学術論文を加筆修正のう
え再構成したもので、正直なところ、一般向けの新書としてはまとまりに欠
ける部分もあり、文章も学術的で生硬なところがあります。ただし、学力を
巡る議論が陥りがちな「子ども中心主義の罠」と「ポピュリズムの罠」の2
点を明確に指摘しており、例えば昨年から話題になっている大学入試改革案
の是非を考えるうえでも大変参考になるものと思われます。

さて、一つ目の「子ども中心主義の罠」とはどういうことでしょうか。学ぶ
主体である子どもを中心にして教育のあり方を考えようという主張は誰も否
定できないように思われます。しかし、教育という営為は、学ぶ主体だけで
は成立しません。そこには学ぶ主体とともに必ず教える主体も存在します。
つまり子どもに何をどこまで教えるかは、大人である我々の問題なのです。
学力問題を子どもの視点からだけ論じることは「学力論が背景に持っている
社会的なビジョンや政治的な路線の問題は議論の対象にならなくなってしま
う」(p.46)危険性をはらみます。

著者は、思想家ハンナ・アレントの「(新しく大人の世界に参入してくる)
子どもの教育が、異質なもの同士が共存する公共的世界の複数性が維持され
る鍵」(P.70)という議論を参照しつつ、<教え>の公共性に着目します。
内田樹さんも再三述べているとおり、子どもの視点に立った教育(=その受
益者が子ども本人であるという教育)の結果、自己利益の追求のみを考える
子どもばかりになってしまったら、もはや我々の社会は維持できません。社
会を維持するためには、<学び>の視点とは独立したところに、<教え>の
公共性を置かなければならないのです。そして、今問われているのは、子ど
もの学力低下よりもむしろ、「学力論が背景に持っている社会的なビジョ
ン」の中身に他ならないように思います。

2つ目の「ポピュリズムの罠」とは、「『みんなやればできる』という前提
にたった捉え方」(p.31)です。この捉え方も正面から否定しづらいかもし
れません。しかし「みんなやればできる」という考え方が前面に出過ぎれば、
子どもや親の力ではどうしようもない「社会的競争ルールや社会構造自体に
由来する格差」を覆い隠してしまいます。つまり「子どもたちがスタートラ
インの異なる競争に放り込まれている」(p.104)現実が見えなくなります。
もちろん不遇な生育環境でも、努力に努力を重ねて、弁護士や医師、経営者
など社会的に高い地位を獲得した人はいます。しかし統計的に見れば、そう
した人は例外的な存在です。「みんなやればできる」という言説が仮に正し
くても、そもそも「やれない」環境を放置して、ひたすら「やればできる」
と子どもたち(あるいはその親たち)を煽ったところで学力問題は一向に改
善しないのです。

本書を通じて再認識したことは、望ましい教育のあり方は、望ましい社会の
あり方とは切り離して考えられないことです。かつて明治期における教育改
革は、富国強兵を成し遂げ欧米列強にキャッチアップする人材の育成を目的
としていました。敗戦後の教育改革は、GHQの指導のもと民主主義と経済復
興を担う人材を育成することに置かれました。少子高齢化の中、東日本大震
災と原発事故という大災害を経験した我々はこれからどのような社会を築く
べきなのか、そのために教育はどのような役割を果たしていくのか、教育業
界の末席を汚す者ではありますが、引き続き考えてまいりたいと思います。
<文責 ナカダ>

Vol.494:最後のクジラ

2013年12月16日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊

『最後のクジラ――大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』赤坂英一著(講談社、2013年)

昭和40年~50年にかけての時代、首都圏に住む小学生の多くは巨人ファンで
した。一方で弱小球団、大洋ホエールズを応援する子供は地元の神奈川県内
にもほとんど生息していませんでした。1978年大洋のホームグランドが川崎
球場から横浜スタジアムに移転した際、大洋の緑とオレンジのヘンテコなユ
ニフォームは青と白のおしゃれな色に変わりました。しかし、1998年前後に
奇跡的に優勝した時期を除けば、球団の順位は不動の万年Bクラスです。球
団名やオーナー企業が変わっても「横浜大洋銀行」の伝統を平成の今も引き
継いでいます。

コガは中学生の頃からそんな弱小球団の魅力に惹かれ、今まで30数年間応援
しつづけています。そのファンになるキッカケを作ったのが、この本の主人
公である田代富雄氏、通称「オバQ」でした。忘れもしない1977年、彼が
ホームランバッターとして一躍注目を浴びた年でした。1試合に何本もホー
ムランを打ち、田代は弱小球団の希望の星として期待されました。そしてそ
のホームランの弾道に魅了されて少年だったコガは大洋のファンになったの
です。

しかし、選手としての田代はホームランか三振という「大味」な選手でした。
記憶に残る選手ではあったものの、記録に残る選手にはなれずに現役を引退
しました。
個人タイトルの獲得もリーグ優勝もすることもなく。

本書は、そんな田代の現役引退後のキャリアを中心に綴ったルポルタージュ
です。2009年5月、一軍監督が突然辞任したため、二軍の監督だった田代が
突然監督代行として一軍の監督を担当することになります。チームの士気は
最悪でした。そして「代行」の肩書がついていることからも分かるよう田代
自身も「今シーズンだけの監督代行」として監督の職に就きます。前任の尻
拭い、球団フロントの失策を一手に引き受ける形での就任ですからモチベー
ションが上がる訳がありません。それでも田代は外部に対して一つの不平不
満も漏らさず頑張ります。本書の中で「この仕事(監督)の要諦は一にも、
二にも沈黙を守ることにある」というフレーズがでてきます。彼はその言葉
を忠実に守りながら、後に続く人材を育成していくのです。しかし努力もむ
なしく、その年は最下位に終わり、予想通り次のシーズンからは別の監督が
ベイスターズを引継ぐことになります。

本書を推薦するのは、コガがホエールズ(ベイスターズ)ファンという理由
だけではありません。本書の魅力は、仕事の第一線から退いた後、男がどう
人生を歩んでいくかという事をリアルに泥臭く描いている点にあります。

かつて営業の第一線で華々しい業績を上げていたAさん、商品開発部で続け
ざまにヒット商品を開発していたBさん、ボロボロだった関西支店を1年で立
て直し、ミスターマネジャーの名をほしいままにしたCさん、そんなAさんB
さんCさんであっても、栄光の日々は長くは続きません。むしろ栄光の期間
から退いた後の職業人生の方が長く続くはずです。そして大抵の場合、彼ら
を待ち受けているのはあまりパッとしないポジションです。どんなに頑張っ
ても、そこでかつての栄光をもう一度手に入れる可能性は低いのです。しか
し、そのポジションで愚痴をこぼさず沈黙を守り、ベストを尽くして働くこ
としか中高年の社内キャリアは残されていません。そんな、最盛期後の仕事
に我々はどんな意味を見出すべきなのでしょうか?

田代自身は一軍監督から退いた後再び二軍監督に戻るものの、1年後球団フ
ロントへの移籍を打診された際「現場にこだわること」を理由にベイスター
ズを退団します。本書の描く田代富雄の人生はそこまでです。最後まで頑張
って働いても結局報われることなく組織を去る寂しい男の姿がそこにはあり
ます。

しかし田代の野球人生にはまだ続きがあったのです。
2013年11月3日、東北楽天ゴールデンイーグルスが優勝を決めた試合でのこ
とです。9回裏、世間の目はマウンドに立った田中投手に釘付けでした。し
かし、その時ふとカメラが楽天のベンチを映しました。ベンチの中にエラの
はった大男を見つけた瞬間、私は目を疑いました。なんと田代が楽天のベン
チの中にいたのです!

後で調べると、田代は昨年から楽天で二軍打撃コーチを担当、2013年からは
一軍打撃コーチを務めていたのです。楽天打線好調の影には田代の存在がか
なり大きかったと言われているようです。野球人生の終盤となって初の日本
一の栄冠をつかむことができた田代は、我々に現場で戦いつづけることの大
切さを言葉でなく実績で示してくれたのです。

いつの日か田代が横浜の地に監督として再び戻ってきてくれることを願って
います。<文責:コガ>

Vol.493: 信念対立解明アプローチ入門─チーム医療・多職種連携の可能性をひらく

2013年12月07日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊

信念対立解明アプローチ入門─チーム医療・多職種連携の可能性をひらく
京極真 著(中央法規出版刊、2012年)
◆──────────────────────────────◆
最近、全く異なる2つの病院のナースの方から似たような話をお聞きしまし
た。看護の学生さんが病院実習で、初歩的な(しかし、一歩間違えば患者さ
んの命にかかわる)ミスをしたので、看護師長が叱ったところ、翌日から実
習に出てこなくなり、さらには学校の先生から病院に「叱らないで欲しい」
という申し入れが入ったというのです。

「叱らない、褒めて伸ばす」という教育方針で育てられてきた子(とはいえ
22歳)にとって、突然赤の他人にいささか強い語調で注意を受けたことは、
まるで「お前はナースになる資格などない、いや人間じゃない、死んでしま
え」といった最後通牒に聞こえたのかもしれません。この2つの事件はとも
に目撃者もいて、看護師長の叱責はともに決して暴力的なものではなく、い
たって普通の、さらにいえば、まだ素人の実習学生であることをも配慮され
たものであったというのも共通点でした。

ここで興味深いのは、それしきのことでメゲてしまう学生たちというよりも、
「叱らないでほしい」という申し入れをした教員です。すぐ思いつく想像と
しては、「3年半、ここまで大事に育てて、あとはなんとか国家試験を通し
卒業させるまでこぎつけてきたのだから、その努力を無にしてくれるな」と
いう事なかれ主義への批判です。しかし、看護学科の、しかも臨床系の教員
はほぼ例外なく、病院で看護師をしてきた方々です。それしきの叱責など日
常茶飯事で、そうやって鍛えられて一人前になっていくことは自ら経験済み
であり、しかもそれは必要なことであったと考えているでしょう。

では、その教員たちは、なぜ「変節」したのでしょうか。そして、この申し
入れを受けた病院側はこれからどうしていけばいいのでしょうか。

こうした立場・利害の違いによるコンフリクトを「信念対立」と呼び、その
解明(解決ではなく、解明)法を解いているのが今回の1冊です。著者の京
極先生が作業療法士という医療職であることも手伝い、また、このテーマが
病院シーンからスタートしたこともあり、事例のほとんどは病院におけるそ
れになっています。が、コトの本質はあらゆる組織にも共通しています。レ
ストランの厨房とホール、メーカーの開発と営業、運輸業の運行管理者と乗
務員などなど、です。

著者は、こうした信念対立は、安易に解決法を探してはいけない、と主張し
ます。上述の例でいえば、「病院スタッフは学生に対してアサーティブに注
意をしよう」ということではなく、看護学生の育成をめぐって、なぜ教員と
の間でこのような意見の(信念の)対立がおきるのかを丁寧にひもときなさ
い、と言います。そのためには「人はそれぞれ関心の持ち方によって考え
方・感じ方は変わる」という視点に立ち、当事者がどんな関心・目的・意図、
そして方法で主張や感情が生成するのだろうということをつまびらかにする
ことを勧めます。

本書が単なる問題解決やコミュニケーション技法と異なるのは、立場やシー
ンと言った文脈によって人の立ち位置は常に変わるという「相対可能性」へ
の深い着目であると読めます。

職場はもとより、家庭、趣味の会、マンションや住宅地の自治会等々で
「アノヤロー」と思う人がいるあなた。ゼシ、ご一読を!
<文責 シバタ>

vol.492:『かかわり方の学び方』西村佳哲著(筑摩書房、2011年)

2013年11月17日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊


かかわり方のまなび方

表紙に記載されている著者の肩書は「働き方研究家」ですが、著者紹介では
プランニング・ディレクターとなっています。コミュニケーション・デザイ
ンの会社の代表で、美大でも教鞭を執られている、広い意味でのデザインの
専門家です。

本書はそんな著者が、人と人とのかかわり方について自身の探求を記した、
ルポのような形式の本です。かかわり方の専門家であるファシリテーターた
ちへのインタビューや、ワークショップの本質についての考察など、「教え
ること」に興味がある人には必読の一冊といえます。

さて、本書がユニークなのは、ファシリテーションやワークショップの正し
いやり方を説明した教科書でも、それらを素晴らしいものとして礼賛したも
のでもないことです。先に「探求」という言葉を使ったとおり、ファシリ
テーションとは何か? ワークショップとは何か? について著者が迷って
いる過程を記述したところに、本書の面白さがあります。

そもそも人と人とのかかわり方が、そんなに容易なわけはありません。ファ
シリテーターがうまく切り回せば建設的な意見や、創造的なアイデアがじゃ
んじゃん湧いてくるわけではないでしょう。先生が生徒に、上から目線で
「教える」のをやめて、「引き出す」ようにアプローチを変えれば万事解決
するというわけでもないでしょう。

ただ、その人の人としての「あり方」が、対峙する相手に対して、何らかの
変化を促す可能性があることは、かすかな希望だといえます。

本書には「まえがきの前に」という箇所がありますが、ここで取り上げられ
ている自殺防止活動をされている77歳の女性のインタビューは、私1.0には
かなりショックでした。詳しくは本書を読んでいただきたいですが、積極的
傾聴(アクティブ・リスニング)という言葉の本当の意味(の断片)が、そ
こには見え隠れしています。真実の共感、正しく相手によりそうこと、そし
て、そのために自分に正直であることが、どういうことで、時にどのような
効果をもたらすのかがリアルに迫ってきます。

この女性のパートナーは牧師さんとのことですが、本書に登場したファシリ
テーターの中にも牧師さんや宗教系大学の卒業生が若干ながらいたことが印
象的でした。先に「あり方」について述べましたが、聖職者になる過程では、
少なからずこの「あり方」を熟成させるトレーニングがなされているのでは
ないかと私はにらんでいます。

すかっとした回答のない本書ですが、人としての「あり方」(の一部)は本
書のような本を通じて、迷いや惑いに苦しむことでも熟成されていくのかも
しれません。<文責:マツモト1.0>